岡部倫太郎さんの日記

(Web全体に公開)

2016年
04月11日
18:49

コメントの返信代わりの補足


えーっと、うりりんさんが指摘するように、
あれだけ、長々と話した理由は、
僕みたいな種類の人間の事を、殆どの人は全然理解出来ないだろうな、
使い道なんて無い、更生させないといけないゴミクズだと考えてるだろうな、
そう考えて、自己紹介がてら、そちらを中心に説明してきたわけですが、

なんというか、そういうこと以前に、それ以上に、
周囲の状況が見えていないのかもしれない、
それこそが、僕の話が通じてない一番の理由なのかもしれない、

そう考え直したので、あまり気は進まないのですが、
これから先、コメントに一人一人返信するよりは、
確実で手早く済ませられると考慮して上で、
(僕の文章の出来や読み手の読解力の良し悪しはとりあえず放置して。)

失礼ながら、今回は、遠慮無しに色々と言及させて頂きます。

 

先にこっちから話しておくべきだったのか?

僕は喧嘩は苦手なので、なるべく穏やかに、
ゆっくりと話を進めていきたかったのだけども。

僕はやることが遅いと言われるし、のんびりしすぎかもしれないです。



とにもかくにも、耳の痛い話は聞きたくないという人は今すぐカムバック!
(勿論、聞いた方がメリットあると思うから指摘するのですが。)
















まずは、くに丸さんも言ってましたし、他の人も感じてるかもしれませんが、
「友達派」と僕が言ってる「仲間派」はどう違うのか?という点について。

ポン太さんも同じような事を話していましたし、
僕の日記に対するコメントを見てもはっきりとわかっていることですが、
「友達派」を作るのが主な目的となっているgoxiの中では、
他人の日記を碌に読み込まずに、適当なコメントをする人が多いです。

人の話を聞くよりも、自分の話をしようとする方が遥かに多い。
(当然の理屈ですよね。この場では、それが正しい。
 プロ棋士とか、超イケメンとか、特殊な何かでもない限り、
 自分から交流しようとする人の方が、圧倒的に友達は多い。)


何故、こんなことが起きているかというと、
goxi全体に流れている空気、暗黙のルール、マナー?が、
「友達派」の価値観に沿ったものとなっているからです。

人間というのは、普段が「友達派」であれ、「先生派」であれ、
環境によって、振舞い方というものは変わるものですから、
「友達派」のルールが優勢となっている、goxi内に於いては、
自分の話を優先するのが普通のこととなっています。

何しろ、毎日、多くの人の日記を斜め読みして、
其の上で、何がしかのコメントしないといけないんですから、
一人の話に集中出来ないというのも当然です。

一人に集中すると、付き合う人間は減ることになって閉鎖的になるのだし、
善意を持って多くの人と付き合おうと試みる人程、構造上、そうなる。
持ち時間の多い暇人だったら、幾らかましかもしれませんが、
早碁なら当たりに突撃レベルの信じがたいミスをするものです。
(囲碁に関しては読みの強い、優秀な先生になれる劉備さんですら、
 一記事でも読んでれば、まず考えられないようなコメントする位。)



『だって人間だもの みつを』



囲碁の話ではないんですけど、音楽業界のドラクエとかで有名な人が、
『プロとアマチュアの違いが何か』と問われて、
プロというのは、限られた時間内で、そこそこ良いものを生む人、
アマチュアは時間はいくらでもかけて、プロより凄いものを生むけど、
数をこなす事が出来ないから、仕事にはならない人、
なんて言われてるのを見たことありますけど、
そういった意味では、友達派の付き合い方はプロ的で正しいと言えます。

そして、それをgoxiのような場所では要求されるからこそ、
多くのまっとうな人程、アマチュアとしては生きにくくなるとも。
(新参者や、ネジが外れたような変人は別)


実際、囲碁で飯を食っていこうなんて考える方が、
専門的ではあるものの、それだけに時間がかかってつぶしが利かない、
仕事だけ見れば四面打ちとか素早くこなして専門的でプロ的だけど、
生き方としては、人としてはアマチュア的だと下に見られてるのが普通。
(だからこそ、そういう生き方してる人でも、
 不安になって、自分の鍛錬以外ではプロである友達派に合わせたりする。
 なかなか割りきるのって難しいです。僕も気にしてたですし、昔は。
 というか、僕なんて仕事ですらプロ的と言えるものは無いわけですし。)

本来は、プロもアマも一長一短のはずなんですけど、
意外と、そんな風には考えていない人もいる。



其の事に対して自覚が無いからこそ、たいして疑問を感じていない。
こういった事が、人が集まる場所ではどこでも起こっています。
(大企業病とか、ああいうのが代表例。
 第三者からすると、誰もがおかしいと思うことが行われてる。)




いや、それ自体は別にいいんです。
(いいというのは、好ましいというニュアンスです。歓迎すべし。)

例えば、トーナメントプロに対して、
勝つことよりも、相手に合わせることを優先しろ、
そんなことを要求するのは余りにもナンセンスというものです。

たとえ、「友達派」の人が近寄りがたい雰囲気であっても、
あれが彼らの世界にとって適した空気なんですから、
それを否定するのは傲慢というものです。

同じように、現在のgoxiに「友達派」の気軽な雰囲気が蔓延してるのも、
現在の主要な利用者がそれを望んでいるわけですから、
それは好きにすればいいと思います。

そもそも、僕は人のことをあれこれ偉そうに批判出来る人間ではないし。
必要だと考えてるから、話してるだけなので。

こんなことは、動物の世界ですらあることですから、
理性によって、社会性を持とうとする人間であったら、
意識していようがいまいが、動物よりも色濃くある傾向です。

いちいち、批判する方がバカらしいというか、
これがあるからこそ、社会が成り立っているんですから、
多少の行き違いや不備は仕方がないとして、
むしろ、ありがたがって尊重すべきです。




僕が最も、唯一?大切にしているルール、正義は、

たとえ、どんな碌でもない人間であっても、
最低限の法律だけ守っているならば、
あとは、なるべく個人個人の自由意志に任せて好きにさせよう、
その範囲内で、洗脳、もとい、教育や援助のように、
他人に干渉して社会を形成していくというものです。
(背景には、人間の意思というものに対する疑いがあるからです。
 これというのも、10代の頃の黒歴史が原因。
 よく、人は環境の生き物だと皆、口にはしますが、
 僕は、個人の意思を信じていないからこそ、そういう考えに至っています。
 ただし、環境によって作り出される、意志はあてにしてる。)


「郷に入っては郷に従え」


如何にも保守的で生真面目な日本人らしい考えですが、
僕は小学生の時からそれを意識していましたから、
どれだけ、色々と不満があったとしても、
それぞれの生きる共同体の好きにさせればいい、
境界線を壊そうとするのは、無軌道な自由でしかない、
そういう考えに落ち着きました。

(例えば、ニートとかフリーターに対して、批判的な目を向けているけど、
 周囲の目もあるし、自分が何か言っても、ほぼ意味は無いから、
 本当は言いたい事は山ほどあるけど、諦めて、嫌々、我慢している、
 そういう人ならば、探さなくともいくらでもいますが、
 
 僕の場合はそうではなく、いや、そういう部分もあるにはあるんですが、
 元々の子どもの頃からの価値観が、
 自分の自由については犠牲にしてたものの、皆平等でいないといけない、
 そういうものだったこともあり、
 前向きに?諦めてるというか、普通に受け入れるようになってる、
 そういった部分で、幾らかの差異があると分析しています。
 
 僕の一番の欠点は自分の事を大切にすることが出来ないという点ですが、
 それについて今現在どうなっているかは、前に話しました。)







これも当たり前の話なんですけど、
goxi内での付き合いのように、学生時代の友達と飲みに行くのと、
会社の同僚や上司と飲みに行くの、
この両者では、明らかにルール、空気感が異なりますよね?



お互いの事を見知って尊重しあう友達同士とはいえ、
普段は全く異なる道を歩いてる人同士だったら、
将来の事とか、今抱えてる個人的な不満だとか、世間話だとか、
何を話すにしても、所詮は、他人事、
あまり難しく考えず、好き勝手に言いたいことを言い合えます。

それでも、自分にはない視点から物事を考えられるという点では、
確かに、意見交換するのは無意味だとは言いません。


それに対して、
どのように社会に対して影響を与えようとしてるのか、
どのような立ち位置、役割を社会の中で演じようとしているのか、
其の辺りの理念がしっかりしていて、それを守る空気がある会社、

そういった、会社の人間同士で飲みに行って、
同じようなことを包み隠さず話し合うにしても、
友達同士でのそれとは、些か、状況が異なってきます。

他人事として、各自の意見をぶつけあっていた場合は、
自分が取り入れてもいいと思える意見だけを各自が判断して参考にし、
それ以外の意見については、そのまんま流されます。
(基本的には、次の日にはもう忘れてる。どうでもいいから。)


ところが、現実問題、数はかなり少ないのかもしれませんが、
会社としての目標や、それに付随する価値観がちゃんと教育されてる、
そんな会社の人間同士で顔を突き合わせ、

たとえ、会社の業務とは直接関係が無さそうなことを話し合うにしても、
お互いが適度に緊張感を持った付き合いでしたら、
同じ他人同士であっても、基本の軸としてる価値観が常にそこにあり、
意見を出すにしても、無意識にでも共同体の価値観に沿うものとなり、
映画の話だとか、漫画の話だとか、しょうもない雑談であっても、
後日、仕事をする上での、会社をどう舵取りしていくかを考える上での、
何かしらのヒント、材料になるようなことは十分にありえます。
(職業病とかが近いかもしれません。それがもっと深く根付く感じ。)

というか、社会で揉まれた人が人間として立派だとか、
社会人として生きていくことで、人として多くのことが学べるというのも、
そういう理由からなのではないでしょうか?

何故に、一般的に友達同士で遊んでる人の方が、ダメ人間扱いされるのか。
普通に一緒にいて、意見を交し合うだけで十分ならば、
誰も会社になんて入らず、フリーでやっていたほうがいいはず。
(ヒカ碁の小畑さんが描いたバグマンで似たような話ありましたよね。
 優秀な読者に好き勝手に意見出させて、話を作ってた人との勝負。)





ですから、

たとえ、同じメンバー、同じ話題で意見を交わすことになっても、
仮面舞踏会では、普段とは違う振る舞いをしたりするように、
根底となるルール、空気感が違う場所でやるとなったら、
全然、異なる結果になったりすることは、想像に難くないはずです。




これが、僕の掲げる理念や考えを長々と説明した上で、
主にgoxiに馴染めない人のためにメルマガやメンバーサイトを用意し、
其の中で、寄せられた意見や話題にしたいことを、
僕が自分の理念の下に方向性と話す順番を調節した上でまとめ、
ある種の洗脳、教育、言い方は何でも構いませんが、
集団の中で無意識下にでも影響を与える空気感を作り上げ、
より皆の意見を自分のことのように真剣に考えるように促し、
皆バラバラに無軌道に振舞うよりも、学びや気付きの多い場を作る、

わざわざ、goxiとは違う場所を用意する、その理由です。

ボンヤリとしていて、意識しないと気付かないかもしれない、
そんな空気をどういうものにするかにこそ、意味がある。





そして、

人間の記憶力ってたいしたことない、簡単に周囲の影響を受ける、
これらのことはいまや常識ですから、
各自が意見を言い合うにしても、
ある程度、統一されていた方が頭に残ります。

見ている人とは関係がない意見をまとめた、2chまとめサイトですら、
そのサイト自体の色とかで、頭に入ってくる情報の輪郭は異なります。

囲碁の勉強に於いても、
下手が誰かに教えてもらおうとして、色々な人の意見を聞くよりも、
基礎が身についていない、自分で満足に勉強できない場合には、
たった一人から集中して学んだ方が、良くも悪くも身につきます。
(上手には通用しない打ち方で勝ってる、
 変な癖のついた人から学べば、雑魚狩りだけは上手くなるように)

仮に、友達派の中で仲間派の空気を作り出そうとしたところで、
誰がやっても、そうなるわけがないんです。

今時?の学生グループが、プロ棋士を目指す集団の空気作ろうとしても、
絶対に無理ですよね?

どんな人が、どれだけ意識的に準備して、空気を作ろうとしてるか、
これによって、同じことをやるにしても差が生まれてきます。

たとえ、些細なことを話し合う、行うような場所であってもです。





このことがいまいちピンときていない、
そういう習慣を知らない、軽視してる人が、結構いるらしく、
どんな知識を学べるのか、どんな技術を身に付けられるか、
そんなことばかりに注目して、
人から学ぶということは、人の価値観を知ることだというのを
どうも忘れがちになっている傾向にあり、

その結果として、たまたま、優秀に見えるけどろくでもない、
詐欺師みたいな人と付き合うことになった時、あっさり洗脳されたり、
人の話を斜め読みして、何を話しているのかばかり分析して、
どういう経緯でその話をしているのか、何が言いたいのか、
その人はどういう人間なのかという事を考えなくなり、
人間そのものに興味を無くするようになったりしてしまうようです。

これは、多数の人と付き合おうとする友達派で生きる人、
ある一つの事だけを極めようとした結果、先生派として求められる人
僕のようにどちらとも言えない、卑屈になってる社会不適合者、
程度の差こそあれ、いずれに対しても共通することです。

全ての問題はコミュニケーション、人間理解の問題だと言われるのは、
こういった事情もあるからです。

(これはあくまでも、
 僕と似たような価値観を持った、僕とは違い先生として優秀な師匠?が、
 数万人の人から教えを請われた経験を通して語っていた事であり、
 友達ゼロで誰にもたいして必要とされてない僕には確認が取れません。
 とはいえ、goxiの人達の様子など、僕の狭い人間関係や知識を参照にし、
 確かに、見た限りでは、間違いなさそうと納得したので話しています。
 真偽については、ご自身で判断してください。)




とりあえず、僕がやろうとしていることがどういうことなのか、
それについては、これで大体、説明は済んだつもりです。

そして、友達派と仲間派の違いは、
より強固な軸が通った場で活動しているかどうかの違いでしかないです。

先生派も軸はかなり強いのですが、友達派とは程遠い性質であるのが違う。

僕の作ろうとしている軸は、
友達派の生き方に重なる点が多いからこそ、仲間派といってるだけです。



僕は、先生と生徒派の様に、知識や技術、勝ち負けを重視してはいません。

ただし、強い軸のある先生派の人同士が、
異業種であっても、シンパシーを感じて認め合ったりするように、
友達派の価値観が軸となっていても、それを強いものとするには、
先生派の人達のように、孤独に耐え、自分の考えをしっかり持つ、
そういった特性が必要になってきます。

仲間派というのは、友達派の要素もあり、先生派の要素もあるんです。

僕は、囲碁なんて自分が一生打てなくても構わないです。
適当に友達派に混じって生きていけるだけでいい。
ただ、最低限、生きている間、平穏無事に過ごすためにも、
僕の唯一つ、死ぬまでにやっておきたいことをするためにも、
これだけはやっておく必要があると思ってやっています。


別に、僕は誰かに媚びたり、自己を犠牲にしてるつもりはないです。
プロ棋士が勝つために碁石を自分の代理人として、
自分の意思を碁盤の上に反映し、その結果、勝とうとするように、
人という駒に自分を捧げて、ゲームに勝とうとしている。

僕は自分の目標のために邁進しようとしているのであり、
これは、僕の元々の先生派としての価値観と、
何ら矛盾もバッティングもしません。

会社の経営するのも、プロ棋士として生きるのも、
ちょっとしたコミュニティを運営するのも、家族を作るのも、
利用する駒が違うだけで、本質は大差ないです。


友達派としての要素と、先生派としての要素、
どちらかが欠けていては歪なものとなり、長続きしません。
(プロ棋士は、他人はともかく、碁には本気で貢献しようとしてる)




で、僕の掲げる目標が、何故、友達派に重なるのかということですが、
それについてを長々と時間をかけて説明してきたつもりですので、
そちらについては、前回、前々回の記事だけでも読んでご判断下さい。

こちらの方に納得してもらえたならば、
僕のグループに入るかどうかはともかく、
goxiに興味を持ったんだけど、goxiに馴染めない、不便を感じる点がある、
そういった人達の為にも、やる意義があることと、ボンヤリわかるはずです。

僕が将来的に、囲碁教室とは名ばかりのコミュニティを作ろうとしてるのも、
僕のような社会不適合者を上手い事使えるように模索するのが主目的です。

囲碁ガールを通して囲碁に興味を持ってもらうのと同じです。
(きっかけなんて何だっていいし、本人のためになるならばそれでいい。
 小中学なんて特にそうですけど、先生よりも地頭のいい子供はいます。
 そんな子に対して教える事なんて何もないように、
 先生だからといって、別に、正しい知識を教える必要は必ずしも無い。
 youtuber見ても分かるように、今の子は先生なんて求めてないです。
 大人が率先してやってないことは、真似なんてまずしない。)


実現するのは難しい目標を意識しつつ、
それを目指す過程で多くのことを達成させようとするという、
先生派としての基本工程を、大人と子供が共に学ぶことで身につけてもらい、
そうなれば、自然と、囲碁の学習効率向上、自主勉強の習慣、
この2つも身につきやすくなりますから、
特別、囲碁を教えずとも、そのうち興味を持って始めてもらえれば、
僕がそうであったように、楽しく、一人で碁の勉強が出来るようにもなる。
(スポーツ選手が子供に夢を与えるために頑張りたいというのも同じ事ですが、
 殆どの人は、そんな遠い世界の事より、身近な環境の影響を強く受けます。)








あともう一点は、
仲間派と振舞えるコミュニティを作らないことの弊害について。

その結果、一番、困った事になるのは、僕のような人間なわけですが、
ここまで話してきたように、
友達派にしろ、仕事では仲間派になるようがあるわけですし、
これは誰にとっても無関係というわけではありません。

それはそうとして、
では、僕のような人間を放置することで、どの位、損害を被るかについて。
(勿論、国が弱者保護のために色々してるように、
 僕とは違う、先生派や友達派のやり方でそれをしてる人はいますが)

僕よりも優秀ではあるものの、僕みたいなメンドクサイ人間というのは、
今まで、学校や職場にもいたと思いますが、
それについてのイザコザに関しては、ここでは考えないとして。

仕事では、先生派を過剰に演じようとして、
バランスを取るために、プライベートでは友達派を過剰にやって、
その中間に立つ余裕が無くなっているせいで、
本来、自分で選んで決めれるはずの3つの生き方も選べずに、
僕みたいな人間を放置する羽目になってるよ、というのを、
ちょろっと、お話したのが、以下の記事です。


http://goxi.jp/diary/223558
(第二次大戦の時、若者が死地に向かわされたのも、
 思想的にどうとか、政府がどうとか、以前に、
 好きで国を犠牲にしてまで戦争する国がないように、
 社会として、現在の生活を維持するのが困難になったからです。
 最低限度の生活を続けるためには、現状維持では不安すぎる。
 通り魔とか、テロとかも、これから増えるでしょうけど、
 社会の中で生きていこうとする普通の人であっても、
 本人はそんなつもりがなくとも、
 結果的に、社会悪となることだってあります。)
 







こんなところで、疑問点は晴れたでしょうか?


他の業界はまだしも、囲碁界は、プロ棋士自体は誠実であるにも関らず、
アマチュアの側の囲碁普及のやり方に向上の余地があるからこそ、
今のように、ヒカ碁という超名作漫画があるにも関らず、
尻すぼみになっている現状がある、僕はそう考えています。

僕や他の読者が憧れたヒカ碁の世界と、現実での囲碁界の間で、
著しい乖離があったからこそ、こんな風になってるし、
ヒカ碁のような漫画がこれから先、また生まれたとしても、
今のままでは似たような事になるんだろうなと予想されます。

そのことを、碁打ちの人なら、よくわかってるはずからこそ、
他の業界に比べても、積極的に色々と手段を講じているんでしょうが、
3つのタイプを選べない状況では、
社会的な意義という観点から見た時、教育という観点から見た時、
不十分だとどうしても僕は考えてしまいます。

東大で碁の授業が行われてるように、
教育や人材育成の一環として碁を普及するのを続けるつもりならば、
僕の考えも一考してもらいたいところです。
(そういった流れもあって、保守的な僕は、ここでこんな話をしてる。
 他の業界では、僕のやり方を受け入れられる余地は少ないはず。)





囲碁もそうですけど、
何がわからない、ピンとこないのかがわからない状態に於いては、
緊急に出来る事って殆ど無いんですよね。

読んでくれれてるのにも関らず、そうだとすると、
他人事のようですけど、僕には解決手段は見つからないです。

そういう時は、僕はひたすら盤に並べて考えていました。
(そういうのが苦にならなくなるには、数年くらいはかかるもの)

だからこその、囲碁を教えない囲碁教室をやる意味もあるんですけど、
粘り強く自立できるまで付き合っていく必要があるんだけども、
解決策がわかっていても出来ないからこそ問題だとも前回話しましたし、
何をどうするのかは、相手の自由意思に任せる他ないため、
世の中、なかなか、ままならないものです。
(表向きに出してる、演じているのが友達派のやり方寄りでも、
 根っこがインドアで神の一手を求める先生派の僕は、
 一人で我慢強く考える、10年スパンの我慢比べは出来ても、
 自分にとって、一番、重要なことをおざなりにしたままだと、
 誰でもやるような事すらやる気出ないで、言う事聞かないですし、
 他の人も僕に対して同じように考えているんだろうとは思う。)
ぃーね!

コメント

2016年
04月11日
23:37

>囲碁界は、プロ棋士自体は誠実であるにも関らず、
アマチュアの側の囲碁普及のやり方に向上の余地があるからこそ、
今のように、ヒカ碁という超名作漫画があるにも関らず、
尻すぼみになっている現状がある、僕はそう考えています。

向上の余地…というとどういう事を考えてらっしゃいますか?
ちなみに、私は一つ誰にも言っていないが密かに温めているヒカ碁のSSがあります。
簡単に言えば年齢ギリギリで奨励会入りした加賀がプロ入りしたのをきっかけにヒカルとお好み囲碁対局をするという話。
こういうSSを作るとかするのも一つかと思っています。

まぁ裾野が広がらない限りしりすぼみになりますからね。
これはヒカルの碁以外で囲碁漫画が無い!
これに尽きます。
ホントに誰かやってくれないかな。
それに比べ将棋漫画の多い事多い事!
月下の棋士に始まり3月のライオンやら沢山…ものの歩?
もう腹いっぱい><

2016年
04月12日
00:35

一言で言って、社会的な意義を持たせるということです。

携帯電話が普及して、
ポケベルは用無しになったために消えましたよね。
(僕は世代じゃないから知らないけど)

世の中にとって必要無いものは消えるのが当然の流れですし、
必要があると思われればちゃんと残ります。

別に特に悲しむ事でもない。その時はそのときです。



トーナメントプロの基本的な碁への関り方は、

タイトル戦でたくさん争うために、
「プロ」として碁という対象に向き合いますし、
(この時は、碁を自分に合わせて利用としてる。)

普段は競い合っている仲間同士で、
常に向上心を持って研究会などで研鑽し、
神の一手のようなものを目指して、
「アマ」として碁という対象に向き合っており、
(この時は、碁に自分を合わせて献身してる)

碁との関り方に於いては、実にバランスが取れており、
碁と対等な関係が結べていると評価できると思います。

ですから、其の点から「誠実」と評しました。
彼らには社会的な存在意義がある。

ですから、彼らが一般人とは一切関らない引き篭もりであっても、
理想的な大人のお手本とすることが出来る、そう考えてます。



それに対して、人間を相手にして仕事をする一般人や、
一般人相手に碁を教えるようなことを仕事にしてる人、
これらの人に関しては、事情が異なってきます。

人間相手に同じ事をする(対等な関係を結ぶ)となると、
思いのほか、複雑で大変です。

プロとアマの2つが相容れないように感じる人が多い。

うりりんさんの手段も、囲碁がールとかと同じで、
きっかけの一つにはなりますが、
何度も言ってるように、一発屋で終わらせない、
継続することにこそ意味がありますから、
うりさんが、ずっと読者に受け続ける物を書き続けるつもりがなく、それでも、其の先も囲碁を普及させようと考えるならば、
後に続く手段も考える必要がありますね。


勿論、一人で何でもかんでもやる必要はないです。

僕は囲碁教室という形で、
「生きる力」
(ざっくりいえば、他人と比べて感情的に鳴らず、
自分の信じる道を歩き続けられる力)
を少しずつ、身に付けられるようにするのを目標にしています。

そして、
大人も子供も関係なく、対等な「仲間」として、同じ目標を目指して共に一時を過ごす、そういう場を維持すること自体に、
社会的な意義があると考えています。
(あとは、単純に、goxiには馴染めないけど、
 囲碁仲間が欲しいと考えてる人達には、
 悪い話ではなんじゃないかなと思ってる。)

棋譜作成
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