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負けると怖い先生に叱られる、悪手は親友のようについて回る……という意味ではないんだそうです。
敗局には反省の材料がたくさん詰まっていて、厳しい先生の教えに似ている、悪手もまた自分のあやまちを注意してくれる親しい友である、という意味らしいですね。
これまた、「碁きちにささげる本」からの引用です。
言わんとしていることはよくわかるんですが、しかし負けると怖い先生に叱られる環境というのも、それはそれで強くなれそうな感じがします。
また、悪手が自分のあやまちを指摘してくれるというのも、なんとなく詭弁臭いような気がします。悪手それ自体は何もしてくれないでしょう。悪手は、指摘され、正されて初めて反省の材料になるのです。
自分で自分の悪手に気づくのはなかなか難しいですよ。だって、たいていの手は良かれと思って打っているんですから。
悪手を悪手と知ることで上達につながるのは間違いないですが、悪手のおかげで強くなれる、みたいな論調はどうでしょう。じゃあ悪手を打たなければ強くなれないのか、というと、悪手が一切ない人は既に十分強いわけですから、そもそも強くなれないことを嘆く必要があるのかどうかすら?
逆に、悪手は親友のようについて回る、というほうは、私に当てはまりそうです。こういう手合いとは早めに縁を切りたいものですが、それが出来たら世界一だって夢じゃないですねえ……
コメント
09月25日
23:24
1: ボーボ
なるほど~~(^_^;)
まるで私だ・・(-_-;)
09月26日
00:23
2: ぴよっち
悪手を親友にするには…全局義行先生に手直し…なんて訳にはいきませんもんね
でもアレって、じゃあ少し遡りどうすればそれを打たないですんだか、そう打ってしまった原因から指摘できる人って…無茶苦茶つおい人でないと無理?よね
09月26日
08:13
3: どくとる
ボーボさん
悪手が親友になっている人は大勢いますw
仲間はいっぱいいるから大丈夫ですよ(?)
ぴよっちさん
そうなんですよ、悪手を原因から直してもらうのは、それができる人を探すことからして大変です。
毎回それをやってもらったら、ものすごく強くなるんでしょうね。
09月26日
08:52
4: きゃれら
厳しい先生、親しい友人として、深く付き合いなさいということでは?自分の悪手は、見るのもいやになるものですが、なぜそれを打ったかは、自分しか知らないわけで、そこをしつこく追及せよということだと思います。強くなるには。
この最後の強くなるには、というところが重要で、決して楽しい作業ではないから、楽しく打ちたい人は、やんなくてもいいかもね、という気分もあるかもしれません。
楽しいだけで強くなれるのは・・・、よほど才能がない限り・・・。
09月26日
09:35
5: どくとる
きゃれらさん
なるほど~、それがきっと素直な解釈ですね。悪手を打った理由、確かに自分しか知りません。
09月26日
12:37
6: 並のアマ
打った瞬間に気づく悪手もありますが、そうでないものもあります。
しかし形勢が悪くなっているので、どこかで悪手を打っているはずなのです。
強い人に見ていただけるなら一番良いですが、そうでなくても自分で検討して、「この手を境に悪くなった」と自分なりに理解できる手があると思うのです。厳密にはその判定が間違っていたとしても、そういうプロセスを経ること自体が重要だと思います。
09月26日
13:40
7: どくとる
並のアマさん
なるほど、自力でも探しなさいということですね。そういう意味に取ると、この言葉も「親しい友を訪ねるつもりで、悪手を一生懸命探しなさい」ということで、すっきりした意味になりますね。
自力での反省もよくやるのですが、しばしば失敗して初手から全部悪く見えたりしますw