松江大好き

<< 2013年6月 >>

1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30

松江大好きさんの日記

(Web全体に公開)

2013年
06月03日
09:36

囲碁と宗教とカウンセリング


囲碁は、石の効率を競うゲームです。

常に、相対的なものです。

自分の石の効率を良くしたり、相手の石の効率を悪くするための手段として、石の生死があり、手筋があり、布石があります。

何かにこだわりすぎてしまった側の効率が、悪くなってしまうのです。

相手の石の効率が良いと思ったら、相手の石の効率を偏らせるために、相手の強い部分につけぎったりして、相手の対応を見るのです。


仏教に、四苦八苦と言う言葉があります。

Wikipedia

四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。 苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する。

根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え、
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。

この世の不条理は、逆に言えばこだわりすぎる心が生むともいえると思います。

このこだわりすぎる心を戒め、自分を客観視することによって、こだわる心を持つ自分をありのままに受け入れる。

他人の苦労は、いくら辛くても我慢できるではありませんが、客観視して受け入れることにより、耐えられないと思っていた「苦」が、実は思ったほどひどくないとあるとき思うことができるようになり、その「苦」を乗り越えることが出来るようになります。


私は、宗教やカウンセリングの本質は、実はこの自分を客観視することをお手伝いすることではないかとこの頃考えています。

客観視することにより、別な視点から物事を見る心の余裕を持てるようになることにより、自分で「苦」から脱出するきっかけを持つことが出来るようになる。

心がつらすぎるときは、一時宗教やカウンセラーに依存してもかまわない。

依存することにより、自分を軽くして、自分や一つの物事に対する過度の執着から、少しでも距離を置くことが出来るようにする。

距離を置くことにより、其の物事を別な視点から見る心の余裕を持てるようになる。

「苦」を、自分の中に持ちながら、再び歩くことが出来るようになる。

これを手助けするのが、宗教やカウンセリングの役目だと思っています。


もちろん、別な視点を持とうと思えば、別な視点を持つだけの知識が必要になります。

囲碁を通じて説明すると、捨石の知識を持たなければ、石をとられることは悪いことだという観念に支配され、石を捨てることにより得を図る自由を持てません。

振り代わりという知識がなければ、相手に攻められたときの対応手段に不自由することになります。


「はめて」と言うのは、先入観念が強いと、着手が制限されますので、その性質を利用するテクニックを言います。


「カルト」は、宗教の中でも「依存」すると心が軽くなる性質を利用し、「依存」を利用して、「カルト」に対する心の執着を図る、悪質なものだと思っています。

人は、自分をある程度客観視できるようになることによって、(わかりやすく言えば相手の立場に立って、物事を考えられるようになることも自己の客観視の一つです)初めて自由に物事を考えられるようになり始めます。

「カルト」は、本来宗教が備えているべき、自立支援機能がないのが特徴といえるとも思います。

「はめて」も同じで、相手の執着を利用するということは、自分もその執着にとらわれることになりかねません。

そのため「はめて」を学ぶことは、執着を知ることにつながりますので、推奨されますが、「はめて」を使うことは、執着に自分もとらわれることになるので推奨されません。

うーむ、 長文になりすぎました。
ぃーね! (7) ゆかりか  agan  並のアマ  ふら@逃亡中  劉備玄徳@全日本制覇達成! 

コメント

2013年
06月03日
09:50

1: -

まさにタイムリーな話題で参考させて頂きます。

びっくりしましたwww

2013年
06月03日
12:16

なんか、深いですね。。。ありがとうございました。

2013年
06月03日
12:59

kazuhiro69さん
猫町さん

コメントありがとうございます。

「ボトル内の半分の水」

議論でもないですが、ある人にとっては

「半分しかない」

また、ある人にとっては

「まだ、半分もある」

両方の考え方を持つ人がいて、当たり前だと思います。

でも、「半分しかない」と思うと、水に執着してしまって、動くとのどが渇くのでは無いかという恐怖で身動きがとりにくくなりますが、「まだ、半分もある」と思えば、半分の水がある間に、次ぎの水飲み場を探そうと前向きに歩く原動力になります。

今回、この日記を書いたのは、とあるきっかけがあったのですが、人が考えのパターンを変えるのはとても難しいことがわかっているだけに、きっかけ作りの一助になってくれたらという思いがあります。

2013年
06月03日
14:56

素晴らしい戒めだと感銘を覚えました。

自分の100タイトルや持論なども完全な執着でした…。

もう10年早く拝聴したかったですね…。
いや、今のgoxiではグッドタイミングな御話かもしれません(*TーT)b

2013年
06月04日
14:17

素晴らしいのひと言につきますね!

2013年
06月04日
17:20

6: -


 今も交流のある大学の先生(宗教担当の一人)との話題にさせて頂きます(^^
 
 そういえば、話しをしていて、カルトにハマッタ学生の洗脳を解くことの難しさを言っていた記憶があります。松江さんの言われた「依存」や「執着」はとても的をえているように思います。先生は偏った聖書理解を解くことが大変だったと言ってました。その中の一つに、少数派にいることで自分の存在理由を感じてしまう人もいたようです。
 後で思ったのがあなたも気を付けて下さいってことでしたw

棋譜作成
: