松江大好きさんの日記

(Web全体に公開)

2011年
05月31日
12:03

「危機の時代だから、土光さんを語りたい」


日経産業新聞の記事ですけど、すばらしい記事ですので、ご紹介したい。


「危機の時代だから、土光さんを語りたい」 「メードバイJAPAN」第4部(1)
IHI釜社長と長男・陽一郎氏の証言 (

 日本の製造業は戦後、石油ショックを皮切りとする幾多の危機を乗り越え、そのたびに強くなってきた。そして今年3月の東日本大震災でも多くの企業が被災し、窮地に陥っている。過去の「ニッポン神話」を再現し、復活に向けて歩き出すために今、何が求められているのだろうか。日経産業新聞が5月31日から連載している「メードバイJAPAN」の第4部では「震災で試される底力」をテーマに、「現場力を引き出す経営」「寸断されないサプライチェーン戦略」「危機を突破する技術力」「リスクを分散できる企業提携」の4回にわたって日本のものづくり再生への道筋を示す。(連載記事は日経産業新聞1面に)



「財界の巨人」土光敏夫氏

 第4部の1回目では、IHI(旧石川島播磨重工業)を貫く故土光敏夫氏の経営哲学を紹介している。土光氏は石川島重工業(IHIの前身)の社長、東芝社長などを歴任した後、「財界総理」ともいわれる経済団体連合会(経団連)会長を務めた。働く人々の力を最大限に生かし切る経営のスタイルは、今の日本でも輝きを放っている。

 震災で大きな打撃を受けながら、奇跡的な復活を遂げたIHIの相馬工場。民間航空機エンジン部品では世界屈指の大型拠点だ。同工場は福島県相馬市にあり、事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所から北に40キロメートル余りしか離れていない。震災で鋳造などの主要設備が壊れ、当初は「復旧まで半年は必要」という惨状だったが、多くの女性パートを含む1500人の従業員たちの執念によって2カ月で復旧できた。



工場の電源復旧式にのぞむIHIの釜和明社長=中央(4月15日、相馬工場)

 世界の航空業界関係者もIHI相馬工場の早期復旧を心から喜んだ。というのも、同工場は米ゼネラル・エレクトリック(GE)の主力エンジンの多くに使われている低圧タービンのブレードを独占供給しているからだ。GEは民間航空機エンジンで世界シェア50%を握る。相馬工場の稼働が遅れれば、世界の航空機の運航にも支障が出かねない状況だった。

 相馬工場は「世界で最も生産性の高いエンジン部品工場」といわれてきた。大震災を乗り越え、現場の知恵を生かして今後も技術力と生産性に磨きをかけようとしている。経営者の決断と、正社員もパートも区別なく生き生きと働く現場力。そこには日本企業の多くが学ぶべき経営のヒントがある。

■人間尊重こそ、土光イズムの原点

 IHIの相馬工場はもともと、戦後を代表する経済人である土光氏が航空機エンジン事業への参入を決断したことで発足した。「財界の巨人」とも言われた名経営者。先行きが不透明な今こそ、日本の製造業が世界を相手に戦うために辣腕を振るった土光氏の「人間尊重の経営」を思い返す必要があるのではないか。




財界の巨人として活躍した土光敏夫氏
 土光氏は1950年、IHIの前身である石川島重工業の社長に就任。その後は経営危機に陥った東芝の再建社長を引き受けた。74年には経団連会長として「財界総理」となり、80年代には行革にも尽力した。88年に亡くなるまで、働きづめの日々だった。

 作家の故城山三郎氏は土光氏の生き様を、「一瞬、一瞬にすべてを懸ける、という生き方の迫力」と表現した。最も好きだった言葉も「日新、日日新(日新た、日々新たなり)」。「毎日、毎日が新しい日で、1日1日を全力を投入して生きていく」という意味である。

 被災したIHI相馬工場には土光氏の哲学が受け継がれ、今も生産革新で世界の先頭を走り続けている。経営者・土光敏夫氏の足跡を、IHIの釜和明社長と長男である土光陽一郎氏のコメントを紹介しながらたどってみたい。


■土光さんは「決断の人」




土光さんの写真の前で語るIHIの釜和明社長

 「私は1971年入社です。財務部門に配属されました。65年に東芝社長に就かれた土光さんと個人的な面識はありません。しかし、当時も土光さんの薫陶を受けた先輩が財務部門にいましたので、土光さんのすごさを感じていました。驚くべきことは決断力です。航空機エンジン事業への参入にしても、ブラジルでの造船所の建設にしても、今の時代の経営者ならば、これほど難しい決断ができただろうか。そこに驚きを覚えます。私が入社した時、財務部門の同期は9人もいました。それは土光さんが59年に決断したブラジルの造船所事業に加えて他の海外造船所もあり、若い財務・経理の担当者を派遣する必要があったからです」(釜社長談)

 土光氏はまさに「決断の人」だった。猛烈な勉強家でもあり、米GEなど海外企業の経営を学んでいた。米経営学者、ドラッカー氏の著書もよく読んでいたという。ドラッカー氏の言葉を引用してよく語っていたのは、「勇者は1度だけしか死なないが、臆病者は1000回も見苦しい死に方をする」だ。なかなか決定を下せずに、書類を山積みにしているような会社幹部に対する痛烈な批判だった。

 土光氏は社長として航空機エンジン事業への本格参入を決めた。朝鮮戦争(50~53年)後であり、日本でも防衛力の整備が必要になっていた。戦闘機エンジンを国内生産する必要があったが、航空機の中でも戦闘機のエンジンは技術的に極めて難易度が高い。

 だが土光氏は参入を決断し、57年、東京都に田無工場を建設した。その前に社員を集めた総会を開き、壇上に立った土光氏は「この航空機エンジン事業に石川島の社運を賭ける」と拳で机を殴りつけながら熱弁を振るったという。その拳が血で真っ赤に染まったのは有名な話だ。

 ほぼ同じ時期に検討していたブラジルの造船所事業も「狂気の沙汰」と言われた。82年1月、日本経済新聞「私の履歴書」の中で、土光氏自らがこう書いている。「ブラジル進出はリスクが大きすぎ、狂気の沙汰という意見が多かった。私は、それらの反対意見を、『すべて責任は私が負う』として押し切り、(昭和)33年1月8日、ブラジル関係当局と協議し、議定書の調印を行った」と。

 石川島ブラジル造船所は58年に開業した。土光氏は日本から100人を超える技術者を現地に「骨を埋めて来い」と送り込んだ。当初800人だった従業員は3300人までに増え、石川島重工は投資を回収し、多額の利益も生み出した。最終的には激しいインフレによるブラジル経済の悪化で撤退することになるが、その海外でのノウハウを蓄え、シンガポールでも造船所を成功させた。そして60年代後半には世界の造船業界でトップに躍り出ることになった。

■「逃げ隠れもせず」が土光さんの教え


 「IHIの業績は平成に入ってから長い間伸び悩みました。私が社長になったのが2007年。その年には(プラント事業などの損失計上による)業績の大幅な下方修正をしました。突然のことで、先輩たちからも『何をやっているのだ』と叱咤されました。下方修正の時は本当に経営者としてつらい時期でした。IHIの株式が特設注意市場銘柄に指定され、株主のみなさんにも、取引先の金融機関にも迷惑をかけました。しかし、私はこの危機を乗り切るために従業員の心を一つにしたい、と思いました。だから、逃げも隠れもせずに、どこにでも行って説明しました。土光さんから学んだことでもあります。何よりも社員を大切にすることと、経営者として自分を律することの大切さです。現代の経営者は決断力がないというより、非常に複雑な時代だから決断が難しい。右肩上がりの成長を期待できるわけでもないし、株主を含めて利害関係が複雑です。それでも、危機の時代だからこそ、土光さんから学び、語りたいと思います。経営者として決めるべきことはたくさんありますから」(釜社長談)

 IHIはこの10年間、業績の低迷が続いていた。特に電力用ボイラーなどエネルギー関連や造船といった柱となる事業が不振だった。2007年秋には業績の大幅な下方修正を発表、赤字に転落する。海外のプラント建設といった事業部門で適正なコスト管理ができなかったためだ。問題が起きた時期に社長を務めていた当時の伊藤源嗣会長は辞任した。

 マスコミからは「(財務担当役員だった)釜社長は知っていたはず」という報道もあり、釜社長もいつ辞任に追い込まれるのか、という状況だった。だが釜社長はそこで踏みとどまり、立て直しに奔走する。11年3月期は純利益が過去最高になった。業績回復を支えた功労者は、釜社長が業績下方修正の後に子会社から呼び戻し、エネルギー・プラント事業の採算性を劇的に改善させた橋本伊智郎副社長だ。釜社長の決断による、IHIでは異例ともいえる抜てき人事が奏功した形だ。

■大震災での被害から奇跡の復旧




土光氏の座右の銘「日々新たなり」の額を持つIHIの釜和明社長

 「3月11日に起きた東日本大震災で相馬工場は大きな打撃を受けました。この工場は土光さんが参入を決断した航空機エンジン事業の中核拠点です。1957年に田無事業所を建設してから半世紀が過ぎて、IHIの航空機事業は3000億円規模に育ってきています。地震から1カ月して、相馬工場に行きました。その時に思ったのは工場の従業員の明るさです。土光さんの時代から、現場が生き生きと働くという風土がある。パートを含め従業員を非常に大切にするからです。相馬工場が最初に稼働した10年前ぐらいに行った時は、だいたい200人ぐらいでした。当時の副社長は2000人が働く工場になると言っていました。『本当かなあ』と思いましたが、今では1500人以上に増えています。従業員たちが寝食を忘れて復旧に没頭してくれていました。先輩からは『土光さんの理念を忘れないように』と言われています。その通りです。土光さんといえば、『メザシの土光さん』というイメージしか知らない社員もいます。ただ、経営者として語り継ぎ、その理念を受け継ぐことが大きな仕事だと思っています。特に好きな言葉は『日々新たなり』。社員が日々、仕事に全力投球するような会社であれば、厳しい時代も乗り切れます」(釜社長談)


■「重い荷物を背負えば、人が育つ」

 もう1人、土光氏の人物像や生き方、経営スタイルを知るためのエピソードを証言をしてくれる人物を訪ねた。

 土光敏夫氏の長男である土光陽一郎氏(85)。かつては石川島重工業で航空機エンジンの技術者として活躍し、主力拠点の田無工場長などの要職を歴任した。陽一郎氏が子供のころから、家では仕事のことを語らない父だった。同じ会社に入っても、顔を合わせる機会は公私ともにほとんどなかった。家では無口な父の背中から、陽一郎氏は何を感じたのか。





土光敏夫氏が住んだ家で、父を語る土光陽一郎氏

 「私が小さいころ、親父は仕事ばかりで、ほとんど家に帰ってきませんでした。父は大正9(1920)年に石川島芝浦タービンに入り、機関設計を担当。そして、スイスのタービン会社のエッシャーウイス社に留学し、タービン技術者として仕事ばかりしていました。父からはほとんど何も言われませんでした。ただ、覚えているのは、埼玉のお菓子『五家宝』をよく買ってきてれたことです。後で振り返ると、親父が心血を注いだ秩父セメントの仕事だったのかと思いだしました」(陽一郎氏談)


 土光敏夫氏がタービン技術者として名をとどろかせたのが秩父セメント向けの発電用蒸気タービンの受注だった。昭和4年(29年)のことだ。当時、日本の大手企業はGEなど外国製タービンを購入していた。秩父セメントに売り込んだ時に、「国産だからダメだ」と断られた。頭にきた土光氏は「欠陥があれば、引き取りましょう」と約束してしまう。秩父セメントの工場に何度も泊まり込み、このタービンの受注を成功させ、石川島はタービンで飛躍する契機となった。「国産はダメ」という常識を覆したのは土光氏の執念だった。


 「私は戦後、すぐに親父が働いていた石川島芝浦タービンの親会社である石川島造船所に入り、舶用タービンを設計していました。親父とも仕事についてはほとんど話さない。そしたら、親父が50年に社長としてやってきました。会社で会うこともなく、家からも独立していたから、会話を交わすことはほとんどありません。その後、私は航空機エンジンの設計に携わるようになった。53年には日本でも航空機の生産が再開しました。それで私も業界各社が出資する開発会社へ。57年には石川島重工業が航空機エンジンの田無工場を作り、そこですごい人たちと一緒に仕事をするようになりました。その多くは親父が集めてきた人たちでした。最も有名なのは初代の航空宇宙本部長となる永野治さんです。工場は戦前の海軍で活躍した技術者ばかりで、失敗を恐れない雰囲気に満ちていました。若手にどんどん重い責任を与えて、仕事をやらせる。そして、人材が育っていく。航空機エンジンの開発は難しい。設計も試運転も仕事がたくさんあるから、どんどん人が増え、活気にあふれていました。入社して2~3年でも難しい設計の仕事を任された。それは親父の経営理念も影響していることが後で良く分かりました」(陽一郎氏談)

 土光敏夫氏の有名な言葉に「重荷主義で育てよ」がある。若いうちから、能力を上回るような仕事を与えてこそ人材が育つという意味だ。そして、「少数精鋭」の意味だ。土光流解釈では、「少数だから精鋭が育つ」のである。いずれにせよ、責任のある仕事を任せてこそ、本当に優秀な人材が育つということだ。

 それは田無工場が象徴的なケースだった。土光氏は同工場の建設で大きな決断をしたが、すべては事業部に任せた。投資額が大きいために赤字事業だったが、多くの人材を学歴などに関係なく採用できるように社長として後押しした。現場の生産担当者を含めて誰もが寝食を忘れて仕事に没頭していた。土光氏の、現場に任せ、人を育てることを最優先した経営があった。

■試練があれば、逆に燃えた父


 「親父の生き様を返ると、仕事ばかりの人生でした。小さい頃のことは、日帰りで日光に行ったことと、会社の旅行で1泊2日で河口湖に行ったことぐらいしか思い出せません。いつも家では書斎に閉じこもっていた。いない時に入ってみると、ドイツ語や英語の技術専門書ばかり。英語の技術雑誌「エンジニア」がたくさんあったことを覚えています。そこで何を思っていたのか。私は終戦直後に大学を卒業したから、就職先などない。それで、親父が石川島にしろ、と。それで就職して、親父と同じ機関設計課に配属され、その後は航空機エンジンの設計をしていました。週末に子供を連れて、横浜市鶴見の実家に行っても、ほとんど仕事の話はしてきません。私のことでいえば、田無の工場長だった永野さんから、仕事ぶりについては聞いていたのでしょうが、褒めてもくれないし、叱ったりもしない。おそらく私の母からは聞いていて、安心していたのかもしれません。だから、日経新聞の『私の履歴書』で、私が技術者としての仕事を選んでくれたことを喜んでいる記述があり、それはうれしかった。親父が今生きていたら、今の日本をどう思ったでしょうか。今回の大震災も天が与えた試練。この試練を乗り越えなければならない。親父であれば、間違いなく前向きですから。試練があれば、それを乗り越えるために必死で働く。部下を励まし、部下を育てて、先頭に立って動いていると思います」(陽一郎氏談)

(産業部次長 佐藤紀泰)
ぃーね! (1) 天和 

コメント

2011年
05月31日
18:22

1: -

文章の内容もすごいとおもいますが、これだけの文章を打ち込める松江さんは、すごすぎます!!

2011年
05月31日
18:26

: 焼肉天国さん

これは、日経産業新聞の書名入りの記事です。
私が入力したわけではありません。
でも、すばらしい記事で、私もとても感動しました。

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