人生の岐路編へ行こうかと思ったが前置きが長くなってしまい・・・・(笑)
「小5の夏」
五段くらいだった。少年少女の全国大会でベスト16に。このときに同級生の長崎県代表であるM本がベスト4に。ディズニーランドはもう完璧に飽きているころである。このあたりから囲碁人生の岐路が出てくる。
そして、すごく忘れられない出来事は、趙ちくん先生が弟子探しで九州を回っていた。それで、はるばると長崎まで来てくれたのだ。その前年などの熊本では鶴山先生などをピックアップしたようだ。
深堀囲碁教室で、趙ちくん先生が来てくれた当日に、ちくん先生の指導碁を優勝賞品として選抜制の小規模な大会をした。まずは兄貴が優勝。指導碁をゲットした。その後は昼食で中華に行き、その会場で趙ちくん先生が「もう一人打とう」といきなり言い出した。
なので、急いでまた4人くらいで選抜戦をやった。それには自分が優勝。結局は打ってもらえたのだ。そのときは確か5子で打ってもらった。初手に辺のワリ打ちにはびっくり。これだけは忘れられない。結果は多分、負けだと思う。勝っていたら一生自慢するだろうから、負けたのだろう(笑)
(このときの写真もあり、披露宴のPVでもこの写真を使いました。せっかくの写真ですが、少し残念な感じ・・・。それはまた会ったときにでもご質問ください(笑))
このときに目をつけた長崎人を4人ほど候補にあげて、趙ちくん合宿に誘ったようである。
誘ったようだというのは、自分は行かなかったからだ・・・。なぜ行かなかったかと言うと、候補には上がっていたものの、連絡役が合宿をこちらに伝え忘れたらしい。ここで合宿に行っていれば、のちに院生となって出会う「M上○かし」などとも出会っていたようだ。今とは違う人生だったかもしれない。
このときあたりで今は関西棋院のプロになった畠中星信プロ(今後はほしのぶ)が小学一年生で初段くらいあり、注目され始めてきた。深堀先生のお父さん(地方棋士)は、ほしのぶが中学生までに少年少女で全国優勝しなかったら丸刈りにしてもいいと新聞の囲碁欄で宣言。結果は・・・・。記さないでおこう。
畠中兄は自分の一つ下で、年の分だけこちらが強かった。なので、いつも永代、M本の下の3位でなかなか全国大会に出場できなかったのである。
深堀子供合宿などもM本、畠中兄弟などと一緒に参加して、色々と思い出がある。スイカ割りをして、食べているときに種を飛ばしてみたり、くっつき碁と称して、必ずどこかの石にくっつかないといけないルールを作って囲碁を打ったりと遊んだ記憶はたくさんある。うーん、遊んだ記憶ばかりできちんと囲碁はやっていたのだろうか。深堀先生とふざけていて、脇などをくすぐられて暴れていたら、碁盤のカドに脚を強打してすねが青白くふくれあがった思い出があるのもこの合宿だ。
深堀先生はそれを悪く思ったのか、昼食は外に連れていってくれた。昔から優しい先生だなぁ。
小5の冬へ続く
コメント
08月18日
02:41
1: はずれやま
畠中プロって、序盤速く、大胆な手を打つせんせいでしたっけ。
08月18日
03:39
2: ちゅう
本題が、あるのか…w
08月18日
19:47
3: かずも
はずれやまさん
多分そうです(笑)
ちゅうさん
本題のために色々と書いているのですが・・・(笑)