岡部倫太郎さんの日記

(Web全体に公開)

2016年
02月27日
00:10

間違い探しと正解探し 境界線はどこにある? 後編


スターウォーズトークにて

豊崎「スターウォーズ見たことないんだよね?」
戸松「でも赤は敵ってのは知ってるよ!」
豊崎「おー、いいねー!もっとちょうだい!」
戸松「あと愛生ちゃんみたいな緑のやつ!」
豊崎「え」






初心者から有段者まで、アマ指導に幅広く定評のある、
依田紀基さんが、結構前に、ある書籍を出しました。


http://www.amazon.co.jp/%E7%AD%8B%E5%A0%B4%E7%90%86%E8%AB...

(僕は近所の本屋にあったのを立ち読みして知りました。
 購入される場合は、新刊書籍についてはリアル店舗で買うのを推奨。
 この前のバス事故もそうですけど、物流業界は多忙の極みですし、
 本一冊運ばせるのにドライバーを酷使させるのは忍びない。
 ああー、でも、ステマだと思われると、依田さんに迷惑なので、
 図書館で借りる方を勧めた方がいいか。)



手割について改めておさらいします。


手割においてやってることというのは、例えるならば、

「自分の石が二目の頭を跳ねられている格好になってる形は悪いです。」

というようにして、善悪を判断するわけですが、

「何故、二目の頭を跳ねられていると悪いのか?」

という点が、初心者にとってはわかりません。

「この形はダメが詰まると、
 次にこういう悪形に打たされる羽目になったりするから悪いんですよ。」

とかなんとか、続いて説明されたところで、

「では、何でその打たされた形が悪いのか?」

となって・・・。こういうのがしばらく続くわけです。


そして、こういうことが、社会でやっていくためには必要とされるし、
「論理的思考力」を鍛えるとは、こういうことを言います。
どの分野でも、一流の人間ほど、この能力がずばぬけてる。

論理的思考力とは「間違い探し」そのもの。
「間違い探し」を通じて、「共通ルール」を増やしていく。

この「勘違い力」の向上が、一般の平均では理解出来なくなった時、

「共通ルール」作りとは「自分ルール作り」

と同義のように見られるようになります。

過去のしきたりとかを捨て去って軽視している、
ある種の身勝手さの現れのように他人からは見えることもある。



事実は逆ですが。

一流の人程、欲望に忠実で、よくもわるくも裏が無かったりします。




僕の碁の勉強の例では、
150手目に気になるところがあったとして、
納得出来ないのならば納得できるところまで、
少しずつ巻き戻していって気がついたら序盤まで戻る、みたいな、
そんな間違い探しを徹底しようと努めていたため、検討量が膨大になり、
それを補うために、とにかく、早く石を並べまくる、
ボケッと眺めて考える時間があるならば、手を動かし、体で覚える、
そういうことを19路打ち始めて、少しした頃からしていました。


ですが、こういうのは、従順な日本人程出来ない。



小さな子どもが親に対してこういう質問攻めをすることはありますが、
いい大人が、こんな遠慮無しに、ずけずけ物を言ったり普段してません。

囲碁で指導してもらう際も、
唯でさえ教えてもらってるという意識を持ってる下手が、
こんなに矢継ぎ早に質問することって少ないです。

普段の習慣でやっていない、むしろ、真逆のことをしてるのに、
いきなり、囲碁でそれをやろうとしたって、そりゃ無理です。
それが出来るなら、誰でもやってます。


などと書くと、僕が普通の日本人のような育ち方していないようですが、
そういうわけではないです。

僕の元々の気質的には、今の僕の在り方の方が自然かもしれませんが、
昔の僕は今のあまりよく言われてない一般的な日本人以上に、
日本人であろうとしてました、それも、意識的に。

良くも悪くもそれが完膚なきまでにぶっ壊れたのが、思春期の頃で、
今の僕は、
子供の頃から染み付いた一般的な日本人としての在り方と、
其の頃にぶっ壊れて以降に身につけた在り方、
其の両方が混在しています。



ですから、
「論理的思考力」が身につけたくても出来ない人が、
自分とは違うと思わないですし、
機会があるならあとからでも、
本人が必要と思う程度には出来ると思ってます。



まあ、でも、それはともかくとしてです。

時には、頭を使わず、丸暗記に近い事をするのが必要なのも事実です。

ところが、まがりなりにも「頭脳ゲーム」である碁では、
それに近い「手割」で勉強するのは初心者には無理、
だからこそ、上手も下手も困ってるという話でした。

ところが、それに近いものがあった。
手割よりも遥かに便利で、実現しやすい手段が。




それを見つけたのが、囲碁マスターヨーダこと依田紀基さんです。

本人はトッププロの中でも抜群の布石感覚を持っていると評価されたり、
色々と珍妙なエピソートがある位、
一般人とかけ離れた「芸術家タイプ」と見られることが多い人ですけど、
無闇に「感覚」に頼らず、「計算」の範囲で説明するのがとても上手い。
(小学生の頃、通知表が1ばかりの劣等生だったことも影響してるのか?)


この著書の帯に書かれた「400年の歴史を変える」というのも、
あながち、誇大広告とも言い切れない位に画期的な考えが話されてます。



詳細については、ご自分で買うか借りるかして確かめてもらいたいのですが、
簡単な紹介だけさせて頂きます。


この本の中では、
石の効率が良い場所を「筋」、悪い場所を「筋場」としてます。
「急所の一路となりは筋違い」という言葉があるように、
この本でも「筋」となる着点と「筋場」となる着点を分けて話しています。

曰く、囲碁とは、筋に多く打って、筋場を避けるゲームである。
(勿論、例外はあります。その辺りは本読んでください)

そして、「筋」と「筋場」を見分けるために必要な情報は、
たったこれだけです。





「筋場」とは「二つ以上石が並んだ、相手の石がない側の一路横」である。
自分はそこに打たないようにし、相手をそこに打たせるようにすればいい。





基本手筋や格言等、
石の形についての知識が一切無い初心者の人であっても、
五目並べができる位の知能があれば、それで事足りると、
そのように「筋場」について説明しているのです。

これに従って継続出来るのならば、
餌付けされたお猿さんでもそれなりの碁が打てるようになるかもしれない。

「目が2つあれば石は生きる」
というのが身についている位の初心者であれば、
この立った一つのルール(約束)に従って打つだけで、
部分的な石の形については、概ね、正しい打ち筋となる、というわけです。


やってることというのは、
「複雑な石の形を出来るだけシンプルに整え、
 最小限のルールの元でその善悪を評価する。」

「手割理論」も「筋場理論」も同じなんですが、
前提として必要となる知識が、
トッププロでも、初心者でも、変わらないのが特徴です。


勿論、慣れというのはあります。
読みの深さや目算力だって、訓練によって差が生まれてるわけですから。

しかし、逆に言えば、初心者の頃から、筋場理論に従って打つようにしていれば、
有段者になってから手割について勉強したような人に比べて、
棋力が追いついたときに大きく差をつけることが可能とも言えます。

地力がついている人、筋がいい人の伸び率は高い。



とりあえず、他の棋書を購入するお金ある人は、この本買って損は無いです。
この本は一生物になるだけの価値ある書籍です。

今まで思うように上達出来なかった人の最後の救済策と言っていいです。
これで、少なくとも、碁に関しての悩みはだいぶ消えるはず。

これで駄目ならもう本当にどうしようもない気がします。



ある程度、慣れてこれば、ジクソーパズル並べる感覚?とかで、
すいすい綺麗な形で打てるようになるんかな?

その時こそ、「手割」の出番です。

物事を突き詰めて考えていく、
古代ギリシァの時代からあるソクラテスの対話形の思考法にも似た、
小学生がやって大人にうざがられ街を追い出されるレベルの「間違い探し」

自分で碁を作っていく力がつくはずです。

手割が好みじゃないなら、僕のやり方でもいいです。
(僕は計算好きじゃなかったので、手割は全然知らないです)





と、このように、

何かを成し遂げる、大きく世の中を変えようと思うならば、
「誰でも」頭を使うことなく出来てしまう、やってしまう環境と、
「論理的思考力」を身につける環境、
この2つが整備されている必要があります。

「弱者保護」と「強者育成」

これは、どこの世界でも同様です。
どちらが欠けても、歪なものとなって衰退していく。

日本の財政が破綻しないのも、
累進課税制度の「所得税」があるのと、
資本主義による概ね平等な競争がかろうじて両立しているからです。

片方では金持ちが割りを食う分、
もう片方では貧乏人が割りを食う、
お互いに「仕方が無いかな」と「勘違い」出来ているからこそ維持できる。
この境界線が少しずつ変化しているだけです。

「長期間に渡って」得しようと思って計画を立てるならば、
また、それを出来ているのならば、
必然的に、それは世の中を良くすることに繋がります。

一人一人の意思を越えた枠組みの中では、
しょうもない善悪なんかで争うのは非効率的です。


こんな簡単な「ルール」の重要性を、
いまいちわかっていない人が多いことこそが世の中を悪くしてます。

僕の話は、全てはそこに集約されますが、今はここまでで。









『僕の中には神がいる。

どんなに苦しい局面に陥っても、
その神に決して背くことなく信じ、守り、貫き通す。

僕の創った神に僕が従う。

・・・それが僕の仕事に対するたった一つの決め事だ。』

  イノサン(集英社・グランドジャンプ)  坂本 眞一












では、今回の話を最後にもう一度まとめます。


人間関係に限らず、あらゆるモノとの関係とは、
「ルール作り」という「共同作業」に他なりません。
宗教なんかは、自分と神との関係の定義に基づき、
自らの信仰する教義を決めるわけですし。

そして、囲碁の話でもそうでしたが、
より相手の事を理解しようとするならば、
言い換えれば、「より上等な勘違い合い」をするためには、
論理的思考力が試される、「間違い探し」が鍵を握ってきます。


これは、「勇者タイプ」の生き方そのものでもあります。


「間違い探し」とは、
共通点、つまりは、互いが守りあうことが出来るものを探すことです。
其の上で、どうしてもお互い相容れなかったり、
今現在、必要ではないものは「捨てる」ことでルールを変える。

囲碁と人間との関係では、
定石とか布石とか手筋とか共通ルールのようなものをたくさん作りつつ、
絶対に到達できない神の一手をのために、細かいルール変更を一生続ける。


今回、紹介した「筋場理論」の通りにやれば、
いつまでも不毛なことで悩んで立ち止まるのは減るとは思いますが、
初段位から先を目指そうとするならば、やっぱり楽ではないです。

僕の場合は、幸か不幸か、
簡単に「勘違い」出来ない位に、頭が固い人間だったばかりに、
囲碁に関しては「勘違い」を繰り返すことが出来るのが楽しかった。
「わかった気になれない」のが苦ではなかったから継続出来ました。

碁に裏技なんて無いです。
「勘違い力」をつけていくしかない、
基本的には「勇者タイプ」寄りの平等で対等で王道なゲームですから。





最近、ネット上でバカにされてる、
「意識高い系(シールズのアホ学生とかが代表例)」という人や、
「自分探し」を口にして、やたらと海外とか芸能人に憧れる人達、
こういう人達は、「間違い探し」は面倒くさいからと、
安易な「正解探し」ばかりしてるような人達だと思います。
(この前バス事故で無くなった美人の大学生さんは違うと思う。
 2chでは意識高い系のボンボンだとか、色々言われてるけど、
 海外に働きかけた方が社会貢献できる人もいるんだから。)

「間違い探し」を伴わない「正解探し」というのは、
「勘違い力」を付けると言うよりは、「思い違い力」に染まる感じです。


「勘違い」というと、いくつかある選択を間違えてるイメージですが、
「思い違い」だと、自分で選んで無いせいで間違えるイメージ。

実際、ああいう盲目的な人らに迷いは少なそうですし。

「神の一手」を求めるという、
「勘違い」を前提とした「正解探し」をしてる人と比べたら、
「間違い探し」が出来ていないばかりか、「正解探し」すら中途半端、
魔王に憧れた魔王のなりそこないみたいなあり方です。


海外では、子どもの頃から「魔王」的価値観を植えつけられて、
どれだけのリスクがあろうと、何度、失敗しようと意思を曲げない、
凡人が引くレベルに「意識高い」人が、
人生かけて「正解探し」をするから上手くいくことがある。

日本人が真似したとしても、
大抵は半端なとこで落ち着く、落ちぶれるのが関の山です。

それをやるなら自覚をもって、それをやらせるなら責任をもって、
其の条件でなら許されると僕は思います。



「魔王タイプ」で上手く行くような人は、
正解探しと間違い探しを区別しても成功出来ますが、
「勇者タイプ」は常に、正解探しをする時は、まず間違い探しをする。

間違いがあるのが気になるから、どうにかしようとするのが日本人です。

気になるから落ち込むのか、
片思いを楽しめるかの違いはあっても、
「間違い探し」を中心に据えて生きてるのはどちらも同じです。

悪い面が強調されているか、良い面が強調されてるかの違いでしかない。

暗黒面に落ちてる、落ちそうな自分ではどうにもならない人のために、
「間違い」を労なく確実に潰していける環境、
「間違い探し」を必要としない環境。

暗黒面は抜け出して、前向きに頑張ろうとしてる人のために、
「間違い探し」を楽しみながら「勘違い力」を育む環境。

この両方が用意出来て初めて、日本人が楽に生きれるというもの。




今回はここまでです。


次回以降も、「共通ルール」や「ルール作り」について、
囲碁以外の観点から考えていこうと思っています。



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