岡部倫太郎さんの日記

(Web全体に公開)

2016年
07月03日
16:29

あなたはそこにいますか?そこってどこよ? 前編


冬布団かぶって、扇風機回して寝てたら、また風邪引きました。

喉痛いのは今朝起きたら治ってたけど、ちょい、だるい。

クーラーは好きじゃないから、扇風機だけど、
風鈴、蚊取り線香、金魚鉢とかで涼を感じるのもありか?

大概、体調悪くなるのは週末なので、
土日は引き篭もると決めてる僕には実害はあまりないんだけども、
日記を書くのは土日なので、ちょっと、しんどいです。


















キャラクターが勝手に動き出すタイプのライターじゃないから、
長編を執筆する時は大変なんです。

時々、ファンの方から勘違いされることもあるのですが、
終わりから逆算して構想を固めていき、
それに沿って、キャラクターを動かすため、とても筆が遅いんです。
最初のうちは、一行も書けずに時間だけが過ぎていく日々が続く。

サザエさんのように、
いつまででも続けられるし、いつ終わってもいい作品が楽ですね。


アダルトゲーム業界というのは、昔から斜陽産業ですからね。
常に人員不足だし、資金繰りに悩まされてる。
一作品こけただけで、会社を畳まないといけなくなるのは珍しくないです。

狭い世界ですから、横との繋がりがとても大切な業界です。

そんな中、一人で黙々と作業をするライターというのも、
所詮はサラリーマンでしかないですから、
締め切りを守るのが原則、且つ、一定のクオリティに仕上げる必要がある。


長く時間をかけて100点の作品を作るよりも、
75点の作品を量産出来る方が商業的にはいいです。

自分の場合、この仕事がどうしてもやりたくて始めたわけではないですから、
周囲の要望に応えることを重視してきました。



未だに、昔の作品をとても高く評価してくださる、
作品考察を続けてるようなファンがいるのは有り難いのですが、
若い頃は、才能だけが取り立たされるのが嫌だったんです。

努力の人だと言われたくて、職人肌に憧れがあったんだと思う。

ただ、最近は考えが変わってきていて、
締め切りを守る職人タイプの反面、
やっぱり自分は表現者でもあるのが本当のところなのだと思ってます。


株式会社ビジュアルアーツ




「何で頑張れなんて言ったんだよ?」
「だって見込みあると思うだろ?」
「それが上からだってんだろ!」
「じゃあお前、あいつらが2年後うちのライバルになってると思うか?」
「それは…でも、公立校が強くなんねーと埼玉の野球は強くならねーよ。」

そういうプレーを自分の判断で行える。
そんな子ばっかのチームなんだから、そりゃ強いよ。

おおきくふりかぶって 26巻より





超訳 岩窟王


青春は花にして、恋こそはその果実なれ。
その実、ゆるやかに熟するのを待ちて、これを摘まんものこそ幸いなれ。

人の叡智は全て次の言葉にあることをお忘れなく。

『──待て、しかして希望せよ』


アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯」







えーっと、前回までのおさらいから。

別に碁打ちに限った話ではなく、現代人全般の話なんですが、
人間というのが、元々、そういう傾向にあるとはいえ、
世の中の大半の人間は、なんだかんだで精神論に頼っています。

頑張ってるのに上手くいかないのは、
冷静に考えれば明らかにおかしいことをやってしまってるからです。



「今までの自分のやり方を変える」

というのは、なんにせよ、難しいものですが、
何で難しいかといえば、人間は自分の選択を正当化したがる、
それ故に、「精神論」に頼ってしまっているからです。



僕の話になりますが、
僕も三級位までは、割とトントン拍子で強くなりました。
いつまでたっても初段にすらなれないという人と大差ない方法で、
それでも、そういう人よりも碁を楽しんでいたから、
多少、早く、上達したのかもしれない。

ただ、本とかをさらっと読んだり、
上手にちょろっと答えだけを教えてもらうだけでは、
実践で変化されると使えない、自分の力になってると思えない、
そう思うようになった頃から、勉強方法を変えました。

http://goxi.jp/diary/223133

将来、トッププロになるような子供なんかも、
僕とはレベルが全然違ってはいても、似たような経緯を辿ってるはずです。



運動神経が良い人と聞いて、多くの人が頭に思い浮かべるタイプって、
足が速いだとか、背が高いだとか、腕力があるだとか、ではないですよね。

いや、そういった人を否定しているわけではないんですけど、
それらって、持って生まれた才能によるところが大きすぎるので。

たぶん、一般的に運動神経が良い人というのは、
「身体操作に長けている人」
だと思うんですよ。

足が速くとも、それを生かすことが出来なければ、
ただ走る以外には使えない人間だと思われますし、
サッカーでリフティング何十回も出来たり、
自分の能力を最大限に発揮することが出来る人を、
「運動神経が良い→センスがある」人と言うと思うんです。


超天才のヒカルとアキラは除いて、
緒方さん以上の才能はありそうなのにプロ試験落ち続けたイスミさんも、
プロ試験前の短い期間で叩き込める程度の戦術とかの「知識」よりも、
それ以前の問題として、心のコントロールという「技術」が欠けてました。

イスミさんレベルの「知識」を理解する分には天才に位置する人ですらも、
「技術」に関しては、他の人と同様に習慣によって身につけるしかなかった。



僕がメインにやってきた「間違い探し」による勉強というのは、
より正確に物事の因果関係を理解して(才能がある人はより早く可能)、
「知識」をきちんとものにする為のものであると共に、
先生の話を聞いたり、本を読むという「頭」を使うのではなく、
ひたすらに並べまくって、体に叩き込む、体で覚えることを通して、
安易に結論を出さない、人に振り回されないための、
自分らしく生きるための「技術」を養うための習慣付けでもあります。

何度も話しているように、
人は頭に頼ろうとすると、直に正当化をして間違った道に行きますから、
出来るだけ、自分一人で考えない、色々な意見を取り入れるためには、
体で、自分の頭の中の世界以外を通して物事に向き合う必要がある。



「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」

ドラマ「僕の生きる道」のタイアップで使用され、
色々な人があちこちで口にするようになりましたが、

この台詞が指し示している事は、
みんながみんな、囲碁のプロになる必要は無い、
世の中に貢献するためには、自分に適したことをやるのがいい、
それ以上のことは言われていません。

世界一、日本一、県で一番、市内で一番、家族の中で一番、
何でも構いませんが、
何かの道で一番になる必要はあるわけです。

それが疎かにしてしまえば、
それは「区別」ではなく、「差別」になってしまうわけですし、
本当の意味での「区別」のためには、
「間違い探し」を通した経験というのは、どこかで役に立ちます。



にも関らず、何故、多くの人が、僕がこれだけ言ってるにも関らず、
「間違い探し」を軽視するのかという話ですが、
自分が今までやってきた、周囲の上手くいってない人もやってきた、
過去の努力を否定したくはないというのは勿論ですが、
根本的な問題として、そんな苦労をしてまで自分を変える、
「メリット」を感じられないからというのが真実でしょう。

自分の友達を売れば一億円貰えるというならば、
たとえ、50年以上の付き合いのある友人でも裏切る人はいるでしょうし、
自分の人生に役に立つ「かもしれない」方法というだけでは、
「間違い探し」を採用する基準にはまだ達しない。



実際、先生に教わったり、本を読んだりする方が、
勝率自体は短期間で上がるのは事実でしょうし、
「間違い探し」は最初のうちは効果が感じられないため、
すごい地味だし、つまらないんです。

筋トレによる基礎体力作りや、goxiでの自己紹介やコメント周りのように、
えてして、基礎というのは地味なものです。

僕も最初の半年位はきつかったし、
ライバルに対する対抗意識みたいなもので嫌々やってた部分が大きかったです。



「住めば都」

人間、何でも慣れちゃえば楽になりますし、楽しくもなってくるのですが、
(これも自己正当化による効能ですから、正当化は必ずしも悪い事ではない)
僕の場合はちょいと事情が特殊なわけですし、
他の人にやれといっても無理なのは、よくわかっていました。

僕のやってきた「間違い探し」は、
ある程度、まとまった時間が無いと、十分とは言えないですし、
頭だって結構使う事になります。



たとえ、つまらないことであっても、
思考停止してしまえばやれなくもないですが、
僕の「間違い探し」は相当に主体的にやる必要がありますし、
はっきりいって、かなりの「マゾ」気質でないと無理です。

学校や仕事で疲れてるような人にはとても無理。


そういった意味で、
「努力できるのも才能の内」と考える人がいるのも、もっともですが、
最近になって、事情が変わってきたために、
囲碁を通じての「間違い探し」を勧める様になりました。


http://goxi.jp/diary/223142

http://goxi.jp/diary/224654



依田さんが提唱している「筋場理論」を用いた勉強も、
「因果関係をはっきりさせて、知識のネットワークを作る」
「論理的に筋道立てて物事を考えられるようにする」
という点では、僕のやってきた「間違い探し」と変わりません。



ただし、僕のやり方には無いメリットが3つ存在する。



第一に、やってることが単純すぎて、
詰め碁の問題を解くように、一局の中での流れを無視し、
ぶつ切りに形を取り上げての勉強が出来るということ。

まとまった時間が取れずとも、いちいち集中して局面を見渡さずとも、
3分だけやったとしても、いくらか身にはなるはずです。

ちょっと気が向いた時に、毎日、短時間でもやることで、
習慣化してどんどん楽になっていくはずです。



第二に、詰め碁と同様、短期間でも幾らか力がつくような実感があるはずで、
「成果が出るのを我慢して待つ」必要があまりないはず。



最後に、僕の勉強法に限らず、普通に人に教わる場合も同様ですが、
人によって理解度が違うと、
同じ局面を通しての検討も食い違いが起きたりして、
「やっぱり、こいつは俺とは違うんだ」
みたいな差別意識が生まれてしまうものですが、
これだけルールが単純だと、そういうすれ違いも少なく、
同じ場で一緒に勉強するにしても、
「仲間意識」というのが生まれやすい気がします。

誰でも、周囲の人のやってない事を改めて始めるのはハードルが高いですが、
その点を踏まえても、周囲に対する引け目をフォローできると思います。



似たようなもので、空手の道場での基礎特訓とかもあると思うのですが、
体を使っての体質改善、人間育成という点では、
確かに、そっちの方が勝りますが、
ネットの中で出来て、気軽という点では、
頭を使っての体質改善というのも、需要があると思うのです。


だから、僕は囲碁普及をする道理はあると断言できる。


プロ棋士を呼んでの指導碁だとか、
碁を通じて友達を作って人生を豊かにするだとか、
そういうのも否定しているわけでは無いのですが、
そういった、手間もお金も時間もかかる、あるいは弊害もあるのとは違い、

「囲碁教室」「囲碁道場」
というのは、極めてシンプルで誰にもイメージしやすく、
「継続」する「習慣化」するという点に於いても勝ります。


囲碁の力がつけば、一層、人に勧めやすくもなりますし。

現状、棋力別に囲碁人口を分けるとピラミッド状になるように、
「先生」と「生徒」という一方的な構図が出来上がるのも当然、
差別意識が芽生えてしまうのもやむをえない背景がありますが、
それも改善されていくはずです。

いくら口ではいいことを言って貰ったり、
友達とかをたくさん作ったところで、
「孤独」を感じる人というのは、どこの世界でもあることですが、
それというのも、どうやっても誤魔化せない環境、体質があるからこそです。



僕がそうであったように、
上記のリンク先の過去記事で紹介した、道を外れた高校生のように、
体(手)を動かして、余計な事を考えず、
同じ方向を向いて頑張ってる仲間の存在を実感できれば、
人は前向きに生きて、無理なく、楽しく、徐々に成長できると思う。



前編はここまで。
過去記事にも目通しておいて欲しいけど時間かかるだろうから、
後編は明日。
ぃーね!
棋譜作成
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