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岡部倫太郎
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2016年
02月12日
22:16
失う事から目を逸らしては為らない、見捨てたものを無かった事にしては成らない
「わたしはどうしたらいいのかなぁ?
やっぱり、いろんなこと考えると苦しいんだ。
これは、やっぱり、どうしようもないのかなぁ?」
「うん、そう思うよ。
あいつは、これから先、自分のしたことを背負って生きていくんだろうし、
君もそうだと思う。」
「一緒にいれば、いつか、解決できるかなぁ?」
「たぶん、無理だと思う。
それに、いつまで、一緒にいられるのかもわからない。
あいつは君の父親にはなれないし、君もあいつの母親にはなれない。」
「ねえ、それでも、一緒にいちゃ駄目かなあ?」
「あいつ、バカだから。まだ、人間が人間を助けられると思ってる。」
「じゃあ、私が自分で決めないと駄目なんだ。」
「うん」
「いいんだ、なんか、一生懸命、走りたいの。
後悔したくない。
まだ、何にもわからないよ。
今のところは、答えがないということが答えでしょう?
・・・今から、始めるんだ。 」
前回、話したように、これが前編となります。
日本人には、隣人を救うのが主目的のキリスト教やイスラム教よりは、
自分をまずはなんとかするのが主目的の仏教が馴染み深いと思います。
仏教で有名なものの一つが「輪廻転生」です。
ゲームや漫画のネタでもよく使われる。
人間も含めたあらゆる生物は、死んだとしても何かの生物として転生する。
キリスト教等では、死んだら天国か地獄にいっておしまいですから、
仏教の方が、ご都合主義的、ゲーム的?のようで、
人生気軽にやり直せる軽い感じの印象を受ける人もいます。
嫌な事があったらリセットすればいい、と。
だけど、そうじゃない。
「罪と罰」の考えは仏教にも、他の宗教より遥かに細かく設定されてますし、
生前に行ったことにより、豚や牛とかに生まれ変わったりもする。
むしろ、東洋の人間の考えの方が自分に対しては厳しいくらいです。
最近、始まった「亜人」は如何にも日本人らしい価値観が現れた作品です。
生命活動を停止させた瞬間から、即座に完全復活をすることが出来る。
亜人の特性にはドラゴンボールのデンデや仙豆もびっくりです。
ただし、万能な能力というわけではない。
腕が切られたり、足を折られたり、腹をぶち破られたとしても、
死なない限りは、他の人間同様、勝手に治ったりもしなければ、痛みもある。
身体能力も普通の人と同じで、熊と出会ったら嬲り殺しにされるだけです。
「命を失う」ことは決してないのですが、
亜人としての身体特性を最大限に活用して戦うには、
命の重みを理解したうえで、命を捨てるように慣れる必要がある。
例えば、傷を負って回復するために自殺を図ろうにも、
舌を噛まないように猿轡されていたり、
頚動脈等を切れないようにされてたとしたら、
致命傷にはならないけれど出欠多量で死ぬことが出来るかもしれない、
そんなやり方を繰り返して、自分を「殺す」必要が出てくる。
「死んだ方が回復できるからお得」だと理屈の上ではわかっていても、
「命」のやりとりを冷静に計算して行動しようとしたとしても、
そんなことは普通の精神ではとてもじゃないけど出来ない。
「生まれ変われる」から自殺して逃げるということが「亜人」には許されない。
そんなハンデキャップを乗り越えて初めて、
死んで得を図ることが出来ない普通の人間には出来ない、
『自分の命の価値を計算した捨石戦略』
を使いこなせるようになる。
命を捨てれるからといって、命を粗末に扱えるというわけではない。
これが、古来から東洋の価値観の元になっている気がします。
囲碁で最も大事な基本とは何か?
と聞かれた時、何を思い浮かべますか?
死活?
手筋?
布石?
定石?
全部、違います。
答えは、「形勢判断」です。
上記の4つは全て「応用」に過ぎません。
一般的に女性よりも男性の方が碁が強いとされてる理由もここにあります。
(あるいは、社会人としても男性の方が優秀とされるのも)
男性の方が、「計算」能力自体は高いからです。
(ベテラン棋士の方が形勢判断は「上手い」強いかは人それぞれ。)
と、ここまでなら、
「あれ、前回、計算よりも感覚が大事みたいに言ってなかったっけ?」
となりますが、いやいや、何の矛盾も有りません。
囲碁ではどちらも同じ位に評価されてるから優れてるとも言いましたし、
最終的には、感覚に頼ることになると言っただけです。
途中経過に於いては計算が大事、
決断の際に計算だけではわからない時に感覚。
人よりもたくさん「計算」する(葛藤する)のは大事です。
それだけでは何も得る事が出来ないというだけで、基本は計算です。
僕が人よりも検討でたくさん並べると言っていたのも同様の理由からです。
続けます。
囲碁に於いて、初段になるというのは、
成人を迎えるような、ようやく大人としてスタート地点に立つ様なものですが、
それを計る基準の一つとして、
「捨石を使えるようになる」
というのがあります。
「石を取られるのはイケナイけど、石を取らせるのは好い。」
とか、
「石を取られた形なら損をしてるけど、捨てたような格好なら互角。」
とも言われます。
そして、「捨石を使える」というのがどういうことを意味するかといえば、
「捨てずに守った形」と「捨てて代わりに他の部分で得をした形」
この両者を比較して、つまりは、
「個々の形の価値判断→両者を比べての形勢判断」
がある程度できた上で、「捨てて得をする」形を選ぶ事が出来る、
「形勢判断」の応用手段です。
「読み」はずば抜けてるし、「知識」を詰め込む事で、序盤も少しは打てる、
そんなコンピューターも「価値判断」は碌に出来ないため、
時折、初心者でも驚く、意味不明の悪手を打ったり、
乱戦時の振り代わりも出鱈目で、正確な読みで石は取れても大損、
そういった場面はよく見ます。(ムスカボットとかね!目があ目があ)
人間がコンピューターに勝る、碁の苦深さも「価値判断」にある。
仮に、「捨てて得をした」、「捨石」が上手くいった格好になったとしても、
本人がそれに気付いていない、本人の意思で「捨てた」ので無ければ、
本人の認識からすると、「捨てた」のではなく、「失った」と感じるはずです。
「苦渋の決断」という言葉もあるように、
泣く泣く「見捨てた」経験は反省して将来の糧にすることが出来ますが、
なんとなく「失った」経験を幾ら重ねたところで、ほぼ得るものはないです。
僕は、検討に於いても、ただ漫然と並べているわけではなく、
わからないなりに形勢判断をしながら進め、試行錯誤を繰り返しています。
そして、「勘違い力」というのは、「捨石を使う」ことで養われていきます。
ですから、「捨て意思(石)力」と言い換えてもいいかもしれません。
自分の意思を殺すんです。
世間一般では「生きる力」とやらが持て囃されていますが、
僕から言わせて貰うと、「生きる力」というのは「死ぬ力」です。
生きた結果と、死んだ結果を比較した上で、死んだ結果を受け入れる力、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」なんて言う程、潔くはいかずとも、
「死ぬ」ことの価値がわからずに、
「生きる」ことの価値が分る等とはとても思えない。
「死んだ気になれば何でも出来る」と簡単に口にして煽る人はいますが、
実際にはそんなこと出来る人は殆どいない。
結果を気にせず、出来るかどうかなんて関係なく、新しい事に挑む勇気?
「蛮勇や無謀」と「誠実な勇敢さ」はまるで異なる。
まともな人間が可能なのは「出来る範囲内」で挑戦することだけです。
その領域を少しずつ広げる事を努力という。
事業で数億円の借金抱えても返してしまうような超人は稀にいても、
(藤沢秀行さんみたいに)
日本という国で100万位の借金で自殺するような人も毎年何人もいる。
殆どの人は死んだ気になれば死ぬんです。
あるいは死んだ魚の目して過ごすか。
安易に根性論を振りかざす人が人を殺してることからしても窺えます。
「死ぬ」ことを考えてこなかった人は、「生きる」ことだって考えていない、
「死ぬ」ことが受け入れられない人は、「生きる」ことも受け入れられない。
僕はそう思っています。
(ゴクウは死んでる位が世の中にとってはちょうどいい。
ブウを自分で倒さず、後進育成したのも、セル戦での反省からでしょうし。)
で、そういう根性論みたいなのを口にする人というのがどういう人なのかというと、
ヒカルの碁で言えばヒカルタイプ、NARUTOで言えばナルトタイプです。
物心ついたころから親がいなかった落ちこぼれ忍者のナルトは、
これ以上下がりようがない社会の底辺だったため、上昇志向の塊でした。
「俺は絶対に火影になるってばよ!」
対して、ライバルであるサスケは、エリート一族として生まれた天才忍者、
尊敬する偉大な父親や兄に追いつこうと真っ直ぐ前を向いて生きてましたが、
兄のイタチが色々と事情があってやむなく、サスケ以外の一族を皆殺しに。
それ以降、兄を殺すためだけに生きるようになりました。
復讐なんてしても意味がないと周囲の人達が言っても、
輝かしい過去を失った穴埋めが復讐を成す事で埋められる、
人生悪い事もあればいいこともあるなんて言うように、
復讐して人生の帳尻が合う、計算が合う、「勘違い」することが出来る、
そう考えて、才能と人望があり、他の人生を選べるのに復讐に固執した。
世の中の成功者の多くは、上昇志向が最初から強いナルトタイプの人です。
韓国や中国が碁が強いのも、
お金がかからず、努力だけで勝負できる囲碁に於いては、
人よりもハングリー精神が強い人が有利だからです。
そういう人は恵まれない環境で育ったのに、頑張ったからと持て囃されるし、
本人もそれで自分はこれでいいんだと更に努力する、
その過程で友達等を失ったとしても、簡単には後ろを振り返ったりしません。
対して、ほとんどの日本人はそうではないです。
現在の時点で失っているわけではなくとも、
将来に「普通の人生」を失うのを恐れて、ひたすら「守り」に入る。
そして、ナルトに憧れる人程、そういう日本人の気質を批判して、
ナルトを参考にしてバランスの取れた人間になれという。
ナルトタイプの人が、後ろを振り返らないことについては、
上手く行っている間はいい、彼らの生き方が世の中を動かしてからと言う。
僕もこれは半分賛成です。
井山君が最近離婚したそうですが、
奥さん(将棋の棋士だっけ?)は気の毒でも、今は仕事が大事だからです。
殆どの凡人は井山君にはなれない。
ナルトタイプの生き方を目指すならば、
最初から「守り」に入ることを考えてはならない、
そのように教えてくれる環境がなかったのだけが問題。
それが出来なくなった時に、落ち着くことも考えればいいんですから。
同様に、サスケタイプの生き方についても、よく説明して選ばせた上で、
ナルトとは違ったやりかたを貫けばいいはずなんです。
サスケタイプの人を突き動かすのは、失った事に対する執着であり、
最初からある程度のラインを想定した上で「勘違い」するためでしかない。
そのラインを手探りで見つけ出すのが、コミュニケーションとも言える。
「失うもの」が今現在特に無いと言うならば、
それを増やす事だけがサスケタイプの人が前に進む、変化する手段です。
つまりは「守るもの」を増やす。
サラリーマンが早く家庭を持った方が言いと言われるのもそれが理由です。
自分の快適な生活を維持するための「守るもの」が増えれば、
それが「愛」等という高尚なものでなくとも、身勝手な利己心から人は動く。
(お互いに求めている基準が異なれば、破綻する事も有りますが)
そこから先、ナルトタイプを目指して家庭を捨てたりするかもしれませんが、
それはそれ、これはこれです。
「家庭と仕事、どっちが大事なの!!!!」
なんて喧嘩は昔からどこの家庭でもありますが、どっちも大事なんですよね。
どんどん守るものを増やしていかないと先に進むことが出来ないんですから。
そして、先に進む事を周囲の人から暗黙の内に要求されている以上、
その時点でより自分にとって大きい方を選んで、小さい方を捨てるしかない。
リスクマネージメントの一種で、
自分が「捨てた」としても問題にならなければいいんです。
そして、僕はそれについては全面的に賛成してます。
(他の人と僕の考える基準が違うというだけ)
古いものが淘汰されるのは自然の摂理ですし、
変化するということはそういうことですから。
本人が納得してるならそれでいい。
だからこそ、自分で選べるというのが、「自由」が何よりも優先される。
僕は自由民主主義愛好家です。
友達や家族、今いる会社を見捨てる事が出来ない、
今、自分が関っているだけでも守りたい、優先したい、
そう考える日本人タイプの人ならば、
人よりも「守る」範囲を大きくして、その分、また多く捨てる、
それを繰り返せば、辞めたくても辞められない、止めたくても止められない、
棋力を伸ばすのが目的ではなくとも、ある程度までは勝手に伸びてしまう、
そうやって、いちいちケツを叩かれずとも、どんどん成長するものなんです。
長年、バリバリ会社で働いてたおじさんが、
一度、首になって捨てる習慣が途切れただけで、
会社以外でそういう習慣がついていなかったせいで、一気に落ちぶれる、
毎日、何もする気が起きず、公園で新聞読んで昼寝する日々、
そんなことも、別に不思議でもなんでもない。
かといって、そんな簡単に「捨てる」習慣なんて作れないでしょうから、
言い換えれば、自由について考える機会や話し合う機会なんて無いから、
ヒカ碁で受験を理由に院生をやめた飯島のように、碁の棋力は上がっても、
碁をやってきた過去とこれからもやっていくはずだった未来、
捨てきれずに保留し続けた「普通の学生」として生きる未来、
その2つを天秤にかけて、釣りあいを取るまでの「勘違い」には至れず、
やりきれないものを残して碁から離れていくようなことになったりする。
(伊角さんや本田もなりそうだった。
勘違いしやすい女の子の奈瀬や天然のフクは不明)
僕の話の根幹を成すもののですから、もう一度言っておきます。
大なり小なり、皆、不満を抱えているでしょうけど、
それを解消するためには、「守る」ものを増やししかないんです。
無いと言うなら作ればいい。
そうなれば、本人の意思を越えて、個人差はあれど嫌でも成長し続けれる。
自分の手に余る程に「守る」ものが大きくなれば、
諦める、「捨てる」ような事態もたくさん起こるでしょうけど、
それが問題にならなければいい、
言い換えれば、
他の誰かがやってくれればいい、
そういうシステムを作り上げさえすればいいことになる。
責任の分散です。
「会社」を作って従業員を雇うのも、本来はそのためのはずですし、
「会社」に入って働くのも、そういう流れを確実に作っていくためのもの、
「国」や「社会」を大事にするのも同様です。
それをいまいちわかっていない人が多いのが問題なんです。
日本人は責任逃ればかりに終始して無責任だと言いますが、
正確に言うならば、責任を逃れる、「捨てる」事を普段からやれないから、
責任がたまりにたまって「問題にせざるをえない」捨て方をするはめになる、
それこそが、問題なんです。
「平和ボケ」してるというか、危機意識が全然足りてない。
社会の一員としての自覚が云々と、若者に説教する人多いですけどね。
棋力を上げる事を「プロ棋士」や「上手」に丸投げしてるのも、その一つです。
生活がかかっているわけでもない、遊びの中ですら社会を構築できない。
根拠のない自信を持つ(帳尻合わせをしないから、勘違いはしない)ナルト、
頭で動くからこそ、都合のいい勘違いし続けながら進む邪気眼サスケ。
サスケ(少しずつ勘違いレベルが上がる厨ニ病)が強くなるからこそ、
鉄砲玉で勘違いというのを知らないまま突き進むナルトが活きるし、
サスケ(万華鏡勘違い中毒)が自立しているからこそ、
ナルト(過去を受け止め、真の勘違い野郎に)も背中を預けて無理出来る。
「捨てる」ことが無責任なんじゃない、
「捨てられない」ような状況を作り出してることが無責任なんです。
赤ちゃんポストに捨てられた子がちゃんと育つなら問題ない。
障害者、ホームレス、犯罪被害者、子ども、女性、
それ以外のあらゆる「弱者」、そして、それを「救う」強者、
人と人とをそんな風に「差別」することが、
「捨てられない」居心地の悪い世の中にしてるんです。
目の前の一人を救うことにはなっても、
世の中全体からしてみれば「社会悪」でしかない。
(どうしても個人的に助けたいなら、周囲を巻き込むべきではないです)
「誰か」が悪いんじゃない、
それでも、あえて犯人探しをするというならば、
「誰も」が悪いんです。
とはいえ、日本に於いては「弱者」とされてる人の方が、
自分の事を「弱者」だとしている人の方が多いでしょうから、
(日本は完成された社会主義福祉国家だと言われてます)
どちらかといえば、「弱者」の側の方が責任は大きいです。
逆に言えば、「弱者」こそが世の中を変える原動力になるともいえる。
(民主主義というのは「弱者」とされる人のためのものです。)
「自称強者」は「最初は」迷わない分、勘違いも出来ないですから。
ですから、囲碁普及も含めて、僕の目的をざっくり一言で言えば、
「気軽に捨てられる」そして「気軽に拾える」ことで、
「無責任」に見えるのに「責任」が取れてるように「勘違い」出来る、
そんなシステムを構築して広めていくことになります。
(というか、本来は生きる目的ということはそういうことのはずなんですが。
親が子どもに色々するのも、生んだ責任を取れた気になるため。)
「バカでも使える」ようになったからこそ、
パソコン、携帯電話、インターネットが普及したように、
バカでも「勘違い」させれないことには世の中を変えるなんて無理です。
誰が何を言おうとも聞かないようなバカだって世の中にはいますし、
聞きたいところで聞ける状態じゃない人もいるのでね。
経済学で有名な2:8の法則(2割の人間が8割を負担する)にもあるように、
2割の人間だけがその気になれば十分です。
というか、ネット社会の現代では、格差もどんどん広がっているように、
どんな分野にせよ、
もっと少ない(1%以下)人間だけが頑張ればなんとか出来ると言われてる。
まあ、何にせよ、社会がどうとか関係なく、誰でも一番、最初にやることは、
「どちらのタイプ」の人間として生きていくかを決めてもらうということです。
機械が人を操るんじゃない、機械は都合よく勘違いなんて出来ない、
(SF映画では、必ず、人間を支配して、自分が全ての責任を負おうとする)
システムを作り出して機能させて利用するのはあくまでも人間ですから。
まあ、僕の計画についての話は、今はここまでとして。
話を戻します。
「勘違い力」すなわり「捨て意思力」をアップさせるには、
「自らの意思で捨てること」、「価値を判断すること」
の2つが必要となります。
すなわち、なんとなく、一時の気の迷いのようなもので、
今もっているものを手放そうとしても意味は無いですし、
価値を本当には感じていないのに、評価を下すことも意味は無い。
「捨て意思力」が身につかない人というのは、
意思がぶれたり、価値が分るほどに考えずにいることが多かったり、
そんなことをしてるから、労力の割に効果が見られないことになります。
だから、最初に、「価値判断」をして、どちらのタイプで生きるか決めべるき、
決めたら、ずっと、その道を突き進むべきだと言ってます。
最初に「捨てるのは」自分に合わない生き方そのものです。
「プロ棋士みたいな不安定な職業目指すなんて、よく考えて決めたの?」
子どもにはそれを要求するのに、大人の方が出来てなかったりする。
それが出来たところで、本当の「スタート」が切れると思うのです。
長くなりすぎたので、残りは次回の後編で補足します。
最後におまけ。
次の四種類のタイプについて、
「継続する」という観点から順位を付けるとどうなりますか?
(勿論、同じ種類の人でも、全然違う人もいますが。)
・表向きには維持志向寄り、本音も維持志向寄り(公務員とか)
・表向きには維持志向寄り、本音は改革志向寄り(主に常連客を相手に商売する)
・表向きには改革志向寄り、本音も改革志向寄り(実力勝負の世界)
・表向きには改革志向寄り、本音は維持志向寄り(日本的な企業のリーマン)
自身で並べ替えてから次の記事に入ると、
今回の話の復習になると思います。
人それぞれなので答えは無いですけど、自分で考えてみるのが大事。
日本人の考える、右翼、左翼、中道はおかしいと海外から言われますけど、
シールズみたいなアホが生まれてきて、「勘違い」出来てしまうのも、
少なからず、僕らの物事の認識にも遠因があります。
(ヒトラーが政権を握る前後のドイツも、今の日本と似た社会情勢でした)
ぃーね!
棋譜作成
岡部倫太郎さんの日記
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