岡部倫太郎さんの日記

(Web全体に公開)

2016年
02月14日
17:26

「僕達だけがいちゃいけなかった街」 泣くのは弱いからじゃない 耐えられるのは強いからじゃない





前回の補足となります。


庶民の家に生まれた勇者(仮)が、街を出て魔王を倒す旅に出たとします。


魔王を倒すために旅をしてる勇者一行なんて他にも何組でもいますから、
(レベル1で街を出た勇者(仮)と違いレベル9スタートの人もいるはず)
仮に最強の剣や最強の鎧を道端で拾ったからといって、
王様に百万ゴールド貰ったからといって、
それだけで魔王を倒せるわけではないです、冒険は長い。

特定のボスを倒すのに必要な道具を入手する他、やることは幾らでもある。
(絶対に勝てない負けイベント戦を経験したり)


主人公補正が一つや二つ働いたからといって、
それだけでは強大な魔王を倒すまでには至りません。

「継続は力なり」と言う様に、世の中で最も必要なのは継戦能力です。
当たり前ですけど、最後まで倒れなかった人が勝つ。
徳川家康が勝ったのも、その点で他の武将より優れていたからです。


で、最初は素手でスライム狩ってても進めるとして、
いいかげん、ちょっと冒険がきつくなってきた中盤位で、
仲間が自分をかばって死んでしまったり、
過去に魔王軍に滅ぼされた遺跡で故人の意思を託されたり、
終盤ではヒロインに凄い力が秘められていて、連れ去られたりします。

そうやって常にテコ入れが入って、勇者(仮)に冒険を続けさせる。
(ついでに、操作してるプレイヤーが飽きてゲームを止めないように)

そして、最終的には、魔王を倒し、真の勇者となるのですが、

「この俺を倒したところで、第二、第三の魔王が生まれるだけだ。」

と、死に際に捨て台詞を吐かれたり、
「自分のやってきた事は本当に正しかったのだろうか?」
と勇者が苦悩するシーンが挿まれたりする。






昔のゲームでは魔王側の考えや行動はあまり描写されないですが、
各陣営の行動をまとめます。



・勇者サイド

守るべきもののために、魔王を倒して世界を変革する旅に出る。

他にも街には住んでる人がいることを考えると、
街にとって必要が無い、
死んでも困らない人から候補が選出されることもある。

現代の日本でも他に職が無いから自衛隊に入る人はたくさんいる。

わずかばかりの支度金を渡され激励されて送り出されたため、
最初の内はサクサク進んでいく。

次第にもう冒険なんて辞めようかと考えるが、
仲間が増えたり、いろいろあって、守るものが増えて止められない。

先に進むにつれて敵も強くなるため、より強大な力を求める。
「毒を持って毒を制す」の如く、自分を阻む者を殺す数も比例する。

途中で冒険を止めたり、ダメージが蓄積されて死んだとしても、
最初の街の人間には評価されないし、覚えてすら貰えない事も。

魔王を倒す位のことをして、初めて、勇者扱いされる。



・魔王サイド

昔からの因習や現支配体制等に不満があるため、
それをぶっ壊すために暗躍するか、新天地を求めて旅に出る。

魔王城が最初の街から遠く離れてる事を考えると、
恐らく、多くの場合、魔王も最初はそこまで強くは無く、
自分から街を出て行ったのだと思われる。

誰にも期待せず、自分の強い意志だけで道を切り開いていく。

あらかた旧いものを壊しきったところで、新世界の暫定トップとなる。
見事、目標達成である。

とはいえ、自分の力だって衰える事も知っているし、生物はいつか死ぬ。
いつまでも、自分ひとりの力を頼りに生きていくわけにはいかない。

せっかく作った新世界が腐敗しないように、新世界を守るために、
バカが生き残れないような実力主義のクリーンな組織作りを考える。

しかし、組織を作ったはいいが、
自分以外にそこまで努力出来るだけの統治者足りえる存在は今はいない。

この先を任せられる存在がいない以上、
もうやることと言ったら、組織を守るために徹底して戦うことだけ。

そこまでやったとしても、反乱分子は生まれる。

魔王を打ち倒して新体制を築こうと考えている部下に倒されるのもありえる、
そのことを知っているからこそ、
たまたま勇者に倒されはしたが、無駄な努力ご苦労さんと嘲笑ったりもする。








どちらも、最初の始まりこそ真逆ですが、
現実を見据えて行動すると、魔王も勇者と同じ行動を取るようになり、
やがては、行動に釣られて思想すらも変化していくようになります。

勇者は小まめに守りながら捨てるのを繰り返し「勘違い力」を高める。
捨てることに抵抗があるからこそ、最初から価値判断に比重を置いています。
魔王よりも険しい道のりですから、心が折れそうになることも多く、
結果的に、魔王よりも捨てることが出来ず「勘違い力」も低いことも多い。

魔王は守る事を碌にせずに捨てまくって突き進み、
一時的に社会的な成功を手にしますが、
限界を知った辺りから考え方を改め始めて、
今まで捨てたものについても振り替えながら、
今度は価値判断について真剣に考えるようになります。



栄枯盛衰、どうせ全ては滅びるというのなら、
守るために生き、結果、壊すことしか出来なかった勇者よりも、
一時的にせよ、魔王軍を作り上げて社会に大きな影響力を与え、
その上、好き勝手やっていたように見える魔王の方が優れている、
そう考える勇者がいてもおかしくはありません。

むしろ、冒険の途中で立ち寄った村で生きていくことにした、
途中棄権の勇者一行の方が賢いとも言える。

その人らはもその人らで、新たに家庭を持ったりしますし、
どっちにせよ、人生とは守る事に行き着くわけですが、
守ることに意味が無いのならば、
守るものは少ない方がいいと考えるのは極めて合理的です。




・・・いや、おかしいのは一目瞭然ですね。

守る意味が無いと考えてるのに、
家庭を守るって何だそれって感じですから。

別に一人身であったとしても、自分を守るんですから同じです。

真に合理的に考えるならば、
守るものは少ない方が人生楽だと言うのなら、
さっさと死んでしまうのが一番合理的です。

あるいは、かっての期待と不安に心躍らせていた頃の魔王のように、
命知らず、傲岸不遜に、好き勝手に生きて野たれ死ぬ、
そちらのほうが、家庭を守って生きるより合理的です。

合理的に生きようとすれば行き着く先は死であり、
死ぬ事が出来ない場合は、死んだように生きる他無い。


だとしたら、そんなのよりは幾分ましでしょうから、
守る事に意味が無かろうとも、そこに何らかの意義を見出す、
「勘違い力」を頼りに生きるしかありません。

合理的に計算できる、客観的な結果を基準に計る「意味」と違い、
「意義」なんてものは、正直、何でも構いません。

他人から見てまるで理解不能でも本人が納得してるならいい。



『この世界は残酷だ、そしてとても美しい』



進撃の巨人でもありますけど、「生きることは戦う事」です。

古いものを守るにせよ、新しいものを求めるにせよ、
どちらにしても、何かと戦い、捨てる事になる。


変化することが無い、何もせずとも失う心配が無い世界だったのなら、

「守る」ために生きてる人は目的が達成されているわけですから、
自分には、何もする「必要」が無く、生きる「意義」が無い。
これは生きているだけの生活に過ぎません。

「新しいものを求めて変化する」ために生きる人は目的は達成されないので、
自分には、何も「出来る」事が無く生きる「意味」が無い。
これは死んでるのと同じ生活に過ぎません。



ですから、どちらの立場の人にとっても、「戦う=捨てる」ことは必然です。
戦って「意味」を手にするか、自分なりの「意義」を見出す事が人の生です。




さて、守るものを増やすのが、「勘違い力」を高め、
「意義」を見出すのに繋がる「生きる力」となるのですが、
別に、必ずしも守る人数を増やせとは言っていません。

そのほうが楽だと言うなら規模を大きくするのが早い、と言ってるだけで、
囲碁を通して「勘違い力」を一人で高める事もできるように、
守る対象は、一人、あるいは、囲碁のようなモノ一つでも構いません。

ただし、その場合は、人よりも「質」を高める、
一つの事について考え続ける必要がありますので、
一般的には効率が悪いように見え、一人でやれとは勧めにくいんです。

「質」を高めるのは、急激に「勘違い力」が上がることがあるのですが、
リスクも大きく、勇者らしからぬ性急さが「魔王」のように見られもする。
(NARUTOのうちはサスケやスターウォーズのダースベイダー等)

魔王っぽい分、魔王の気持ちにも立てそうな、
そういう勇者タイプも一定数、必要ではあるのですが。



















僕が囲碁から離れていた数年間、
お世話になっていた師匠?(本人には恥ずいので言わないけど)がいて、
その内の一人(僕より結構年下)は首から下がほぼ動かない身体障害者です。

子どもの頃に不注意で事故に合い、目が覚めたら緊急手術後の病室だったとか。



このように書くと、人生大変そうだとか、可愛そうだとか思うのが自然ですが、
事故からしばらくの間は色々と思うことがあったのでしょうが、
案外、早い内に切り替えて、今では普通に過ごしています。

どのくらい普通かというと、
彼を知ったばかりの当時の僕も含め、多くの人が、
「悩みなんて全然無さそうで羨ましい」と感じる程です。


僕よりも遥かに大変そうで、自由も無さそうに見えるのに、
「心」が自由だと、こうも印象が違ってくるのかと驚かされる程です。

とはいえ、これは彼がかなり特殊な事例というだけで、
彼と似たようなレベルの障害を持った、同じ病院の患者さんのほとんどは、
残念ながら、健常者よりも「下」に見られるような人ばかりだったそうです。



では、何故、彼だけが健常者よりも健全に見える人間になることが出来たのか?






まあ。話の流れ上予想していた人も多いでしょうけど、
「勘違い力」を養う環境にいられた、と言うだけの話です。


子どもにとって最も影響のある母親がお気楽な性格だったこと、
彼自身が同情されたりするのを嫌う人一倍自立心の強い性格だったこと、
他の障害者が「社会復帰」を目指してリハビリしてる中、一人離れてたこと。

色々な要因が重なって今の彼を形作っていると思われます。



最後の一つについては説明します。

一般的にNGOの障害者支援施設等で行われてる事は、、
健常者のスタッフがサポートしながら、障害者に健常者と同じ仕事をさせ、
それを通じて社会との繋がりを感じてもらい、社会復帰を目指す事です。

僕自身、以前はそこまでそれらについて疑問を持っていませんでした。



ただ、これは言い換えれば、健常者と同じ仕事が出来ないなら、
「意味が無い」と言っているのと同義なんですね。

健常者がやっていることで、
健常者と同じレベルには出来ない事をやらせようとする、
それを通じて社会の一員になってもらい、
社会の中で生きる「意味」を手にしてもらう、
これは、「魔王」タイプが前半にやるやり方です。

主観的な「勘違い」により「意義」を見出す勇者タイプとは違う。

客観的な基準に照らし合わせて評価を受ける「魔王」タイプのやり方です。
それだけに、周囲からは評価を受けやすいですがね。
「障害者なのに頑張ってる!」



普通に考えたら、障害を持ってるということは受け入れ難いものですし、
そんな自分の人生を思うと、簡単に都合のいい「勘違い」なんて出来ません。

健常者よりも「勘違い力」を高める必要がありますし、
「魔王」タイプに寄ってる暇なんてそうそうないです。

歳を取れば取るほど、生き方や考え方を変えるのは大変になるのですから。



そして、彼は事故に合って間もない間に自分なりの人生の意義を見出そうと、
顔が見えないからこそ、皆が平等に扱われるインターネットに目を向けました。

そんなことがいきなり出来る位ですから、寝たきりでいる間に準備していて、
自分の心の平穏を「守る」ために、あえて茨の道を行き、
普通の人なら手にしていたであろう、未来にあったかもしれない多くのものを、
想像の中で一つ一つ捨てていきながら、「勘違い」を深めていったはずです。

「誰にも」助けてもらえなかったから、自分で自分を守るしかなかった。



僕自身、「魔王」タイプに多少は引き摺られていた事もあり、
彼にはとても助けられたと感謝しています。(本人には言わないけど)




彼とは別の人ですが、同じように首から下が全く動かない人を知ってます。
僕が一時期ドリンクバーだけで長時間利用していたファミレスで、
週一位の頻度で遭遇したおじさんで、年老いた両親と御飯食べに来てました。

車椅子が通りやすい、毎度、同じ席を利用しており、視界にも入りやすい、
親に介助してもらいながら、美味しい美味しいとニコニコ食べてました。

見ているこっちの方まで、この世で一番うまいものかのように錯覚させられる、
ファミレスには似つかわしくない、そんな風景でした。

「いただきます」なんて感謝の言葉を口にしてはいるものの、
あそこまで普通の食べ物をありがたがって食べてる人は見たこと無いなと、
毎回ボケッと眺めてたものです。
〈僕の師匠?はアレルギー以前に、個人個人で食物には合う合わないがあって人生を左右するから考えろという。僕はまだ出来てない。〉





これまた、全然、関係ない話で、とある本で読んだのですが、
幼少期に親から虐待を受けた人は、
大人になって自分が親になってからも過去の記憶がフラッシュバックし、
夜、落ち着いて眠り、朝、すっきりした気分で目覚めることが難しいそうです。

精神科医の方と少しずつ過去と向き合い、
「勘違い」を繰り返しながら、次第に変わっていき、
ある時、夜、しっかりと長時間寝て、朝、気持ちよく目が覚めるようになった際は、
お医者さんの前で涙を流しながら感謝するそうです。

短時間睡眠なんていうのが一部で流行ったりしてますが、
人間、寝てる間に記憶を整理しますし、人生の多くの時間を睡眠に費やします。

誰もに平等に与えられているはずの穏やかな時間、
その貴重さや大切さを改めて学ばせてくれる気分でした。
(僕の師匠?は、寝具選びに物凄い時間と労力かけたりしてます。勿論、僕は出来てない。)





高校に通わず、プロ棋士として努力してきた人が、
普通の人より勉強が出来ない代わりに、普通の人に出来ない事が出来るように、
本来、どんな人間であれ、一つのことを長年してきたならば、
何かしら、人よりも秀でたものがあるはずですが、どうなんでしょうか。

個性が大事って本当なのか。



繰り返しになりますが、
別に、どんな人生を選ぼうと正しいどうかなんてわかりはしませんが、
ちゃんと色々な事を学ばせた上で、本人の意思に任せて選ばせるべきです。
それでどうなろうが、それは本人の選んだ道ですから。
(ちなみに彼は安楽死賛成派です。)


『獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす』


という言葉がありますが、今の世の中では、

街に(見限られて)追い出されたけど、街にすがりつく勇者タイプ、
街を(見限って)自分から抜けたのだけど、街を手放さない魔王タイプ

そのどちらかのタイプでないと、
「勘違い力」を身につけるのは難しそうです。

殆どの人は、子どもの頃に街を出て生きていくなんて無いですから。











次回は、小休止して、とあるプロの提案した囲碁の勉強方法と、
僕がやってきた検討方法を比較した上でまとめた、
碁に於いて「価値判断」の質を上げる方法について話そうかと思います。


だいぶ一つの記事が長くなってるため、当初の予定より早く終わりそうです。
あと、3つ位かな。
ぃーね!
棋譜作成
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