フランス語を学習していていくつか印象に残ったことがあります。そのひとつが、つぎの文というか、警句なのか。
Ce qui n’est pas claire n’est pas Français.
「明瞭(あるいは明晰)でないのはフランス語ではない。」
という意です。
大学院生のときに、語学センターでフランス語をを習っていて、雑誌のインタビュー記事で、フランスの田舎の洗濯女の記事を読んで、各自感想を述べるとき、H山は、
「彼女は独特の哲学を持っている」と(勿論フランス語で)云ったところ、先生が、
「貴方の発言は文法的にはまちがっていないけど、フランス語ではありません。」
といわれた。吃驚したが、議論した結果、個人が自分の哲学を持っているのは当たり前で、個人の哲学がそれぞれユニークであるのも当たり前。それをあえて言うのは言葉の無駄。そういうことだった。
論理的にはその通りだし、個を重んじるフランス文化ならばなおさらか、とも思った次第です。
はてさて、日本語はどうなんでしょうか。なんだか曖昧なのが流行していませんかね。
タイトルは皮肉っぽく書きましたが。どんな言語も明晰でないといけないし、日本語がとりわけごまかすのに適しているとは思いたくないです。思ってもいません。
コメント
08月17日
22:11
1: 京
ダーリンは外国人っていう漫画の中にダーリンから見た日本語のことが書いてあって、まさに曖昧表現のことが書いてありました。
ダーリンから見てその表現は素晴らしいという感じでしたよ。
08月17日
22:46
2: はずれやま
敢えて曖昧な方がいい場面は確かにありますね。
外国語(といってもいろいろですが)に比べて、あいまい表現、やっぱり日本語の得意分野なのかな。
08月18日
13:40
3: クニ
日本語には、同じ意味の文章でも
いくつもの「言い回し」があって、
断定的にも曖昧にも持って行くことができますよね。
曖昧表現が得意というか、
使い分けがうまいのかもしれませんね。
08月18日
18:21
4: mikoinrp
日本語は確かにあいまいなところが多いのですが、この頃、日本語は英語などから発達した文法学をそのまま借用して文法を組み立てることが無理な言語なのではないかと言う感じを持ってきました。
私はwordreference というサイトの会員になっているのですが、日本語に関する外国人からの質問を見ていて思うのは、日本語は叙述の途中で主語が変化することを許す言語なのではないかなと言う感じを持つようになりました。具体例を示すとかえって難しくなるので示しませんが、三上章の主語廃止論に親近感を持つようになりました。
08月18日
21:48
5: はずれやま
クニさんのコメントへの返事でそのことも考えてました。そのこととは、日本語ではそもそも主語を明示しない表現がゆるされるどころか非常に多い。
とはいえヨーロパの言語に対峙してのことですね。私は朝鮮語を学習するとき、韓国の政府系の教科書をつかったのですが、1冊目には一人称が主語になる例も言葉も結局一度も出てこず戸惑いました。一人称以外でも「私」がでてくることがなかったと思います。卒業試験のときのインタビューで「私が、、、」という文を言おうとして言えず戸惑ったことを覚えております。
先生は私の戸惑いを察知して、「ホンジャガ?」と言ってくれましたが、それは漢語でいう「本者が」つまり「(あなた)本人が」という意味で「私」とはとは異なるモノであってその場では解決を得られませんでした。
韓国語でも「娘が歌を歌ってくれました」という文などは日本語と同じで「私に」あるいは「私のために」というのは省かれており、日本語とかなり似ていると思った次第です。この例では主語自体は「(私の)娘」であって、明示されています。
主語を明示しないことは、少なくとも意図的に意味を曖昧にしたい場合(あるいはトーンを和らげることも)には便利な仕組みなのではないでしょうか。